第23話 朱音の秘密~7

 赤坂の言葉を合図に、香織は立ち上がり頭を下げた。つられて龍太郎も腰を上げ、軽くお辞儀をする。二人はそのまま診察室を出て、指示されたように窓口へファイルを出してから待合室の椅子に座った。

 次に名前を呼ばれた患者が診察室に入って行く。そんな様子を眺めていた龍太郎は、我に返って香織を問いただした。

「おい、一体なんだ、あれは。斎藤って誰だよ」

「しーっ。大きな声を出さないで」

 小声で叱られた為、今度は囁くように尋ねた。

「斎藤って誰だ。説明してくれ」

「朱音さんの本名よ。私達の部屋で、彼女が診察を受けられるようお願いしたの。でも普通に説明したら、断られるか下手をすると通報されちゃうかもしれないでしょ。だから一か八かで催眠をかけてからお願いしたの。そうしたら上手くいったみたい」

 ペロッと舌を出した彼女が言うには、まず初めに寺内が席を外した隙を狙い、赤坂に自分の願いを聞くよう催眠をかけたという。それが成功したようなので、次は寺内にかけたようだ。

 龍太郎が診察室へ入った際にパチンと聞こえた音は、赤坂に催眠をかけていた時のものだったらしい。それを知り、開いた口が塞がらなくなった。

 朱音の本名を知っているだけでも驚いたが、催眠術をかけて秘密裏に訪問診察させるよう仕掛けたなんて、とても信じられなかったからだ。しかし実際目の前でそれは行われた。その上あの二人は確かに明日来ると了承していた。

 予定では、妊娠しているかもしれないと香織が言った時点で、なんとか訪問診察の予約を取り、あの二人に担当して来て貰うつもりだった。けれど妊娠していなかったと聞かされ、龍太郎の頭からそれらの計画は完全に抜けていたのである。

 ただ香織は違った。直ぐに方針転換し、咄嗟に催眠という離れ業を使い当初の目的を果たしたのだろう。

 夢からまだ覚めないような状態だったが、どうにか質問した。

「最初からそうするつもりだったのか」

「ううん。でも昨日の夜、催眠術を教わったでしょ。その時、その手が使えないか、こっそり彼女と話していたの。それで上手くいけば面白いねって半分冗談で言ってたんだけど、念の為に本名を確認しておいたから良かった。カルテは本名で登録されているはずだし、誰が聞いているか分からないでしょ。あんな場所で朱音さんの名前を出せないもんね」

「それにしても、すごい計画を考え付くもんだな」

 半分呆れて言うと彼女は笑った。

「私が妊娠していたら訪問診察で部屋へ来て貰った時、朱音さんに催眠をかけて貰うパターンも考えていたんだけどね。それが出来なくなっちゃったから、急遽変更したの」

 そうだった。余りにも想像の及ばない事態が起こっていたので忘れていたが、妊娠していなかったというのは事実のようだ。そこで恐る恐る尋ねた。

「香織。妊娠していないと分かってどう思った。俺が部屋に入る前から聞いていたんだろ」

「うん。そうね」

 彼女はしばらく考えてから答えた。

「あれって拍子抜けしちゃった。それに龍太郎にも心配をかけたでしょ。申し訳ないなあって。でも半分はホッとしたかな」

「がっかりはしなかったのか」

「龍太郎はどう思ったの」

 聞き返され、一瞬言葉が詰まったけれど思った通りに言った。

「自分でも驚いたけど覚悟していた分、残念だと思ったよ。父親になるのかってぼんやり想像もしていたし。ただ香織みたいに、ホッとした気持ちもどこかにあったかもしれない。俺がこんな状況だし将来の不安もあるだろ。それ以上に高齢出産になるから、香織の体が一番心配だった。そうした懸念が必要なくなった分、安心できたからだろうな」

「私もそうかな。なんだよっていう気持ちと、良かったっていうのと、悔しい感情が入り混じった感じかな」

「そうか。でも他に悪い所がないと分かったから、それは良かったかな。こういう診断ってなかなかする機会もないだろ」

「うん。基本的に病院は好きじゃないからね。余程じゃないと行こうって思わないし」

「香織は年に一回の、市で受けられる無料の特定健康診断の時しか行かないもんな」

「そう。がん検診もワンコインで受けられるけど、嫌だからやってない。わざわざ悪い所を見つけるみたいで、なんとなく受ける気がしないんだよね。こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、そんなに長生きしたいと思わないし」

 こういう話は、結婚する前やした後も何度かしてきた。二人共その辺りの考えはよく似ている。早く死にたい訳ではない。ただ必要以上の延命を望まないから、万が一の時は緩和ケアで十分だと確認し合っていた。

 互いに親も子もいない、天涯孤独の身だ。もちろん結婚したのだから、パートナーは大事だと思う。けれど相手に無理はさせたくないとの思いが強かった。

 もう十分生きたとの境地にはまだ達していない。けれどこの先長く生きたからといって、大きな希望がある訳でもなかった。それなら病気等にかかり命が長くないと分かった時点で、それが運命なのだと受け入れる方が自然だ。

 未来に絶望してはいないけれど、それほど期待もしていない。残念ながらそんな世の中になってしまったと思うし、そう感じる年齢に達していたのだ。両親を亡くし、もっと若い姉すらこの世から去った現実も、死に対する考えに影響を及ぼしたと言える。

 そこで名前が呼ばれ、会計を済ました二人は病院を出た。そのまま買い物をする為に、スーパーへと向かう。一旦途切れたからか、話の続きはしなかった。

 その代わりに、今日を含めたこれからの献立について相談し合った。これまでとは違い、今家にあるものと合わせて三人分の食材を購入しなければならないからだ。

 そこでまずは木曜日までのメニューを考え、足りない分を買い揃えた。当然普段の量よりずっと多く荷物は重い。時計を見ると十一時半を過ぎていた。その為タクシーに乗ろうと決めた。

 朱音の分も含めて昼食を用意しなければならないので時間がないからだ。これまでも傘を持たずに出かけ急に雨が降り出した際は、そうやって帰ったことがある。それでも車を売却してからたった二回だけだ。

 よって車の維持費などを考慮すれば、手放して正解だったと思う。けれどこれからを考えると、タクシー代も馬鹿にならない。もう少し買い物に出かける頻度を増やし、荷物を減らした方がいいだろうか。そう思っている内にマンションへと到着した。

 大きな荷物を持って降りたところで、停車している車が視界の隅に入った。どうやらまだ警察は監視しているらしい。嫌な気分になりながらも、視線を逸らして部屋に向かう。階段を登り切ったところで息が上がっていた。軽く動悸もする。

「大丈夫?」

 香織が心配そうに聞いてきた。だがそういう彼女にも、通常より多い荷物を持たせてしまっている。その為か、少し疲れた表情をしていたので聞き返した。

「そっちこそ重くないか」

 彼女は若干じゃっかん、顔を引きつらせて言った。

「さすがにちょっと疲れたかな。でもいい運動になるから」

 これまでは階段でもそれほど苦にならなかった。だが今後はそういかないかもしれない。朱音がいつまで滞在するかだけでなく、二人が年齢を重ね足腰が弱ればさらに痛感するだろう。

 それにこのマンションは既に高齢者ばかりだ。同じ階に住む柴田夫妻や横上のおばあちゃんなど八十歳に近かった。まだ四十代半ばの自分達でさえ気がかりに思うのだから、彼らは尚更に違いない。

 これまでは余り他の住民について考えていなかったけれど、日々の生活では自分達には思いが至らない不便さを感じているのかもしれなかった。

 今は便利になり、ネットを使って注文すれば食材だって家に運んでくれる。また実際、生協などを使っているところもあったはずだ。といってずっと外に出ないわけにはいかない。そうなると、階段だけでは上り下りが辛いだろう。

 そこまで想像した龍太郎は思考を止めた。余り先々のマイナス要素ばかりに考えが至ると、体に良くないと分かっているからだ。よって頭を切り替える。

 適度な運動、特に歩くという行為は健康に良い。足腰が強ければ寝込みにくくなるし、元気が保てる。交通の便がそれほど良くなかった時代の人は、良く歩いたから長寿だという。  最近の研究では、歩くスピードが速ければなお良いらしい。認知症の予防になり筋肉が鍛えられ、心臓病もなり難いそうだ。

 うつ病での療養中も日々の食事に注意しながら、散歩により体の調子を整えてきたからこそ一時は復職できたと思い直す。そう考えればこれからやや負荷はかかるが、リハビリに丁度良いのではないか。

 龍太郎だって現状に満足してはいない。二回目の休職から約八年、退職してこの名古屋に来てから四年近く経つ。そろそろ社会復帰に向けて、新たなステップを踏むいい機会だ。ネガティブではなくポジティブ思考でいこう。感情をプラスに転じようと試みる。

 すると呼吸が落ち着いてきて、体の重さも気にならなくなっていた。やはり色々考え過ぎたからだろう。無意識のうちにストレスを感じていたようだ。

「部屋に入ったら少し休もう」

 龍太郎は香織に声を掛けながら、自分にも言い聞かせて玄関の扉を開けた。ドアを閉め、鍵をかけた後に持っていたアルコール液で手を消毒し、リビングに入ってから声を出す。

「ただいま」

 隣の洋間にいたらしい朱音が、戸を開けて顔を出した。

「お帰りなさい。どうでした」

 彼女は真っ先に香織の顔を見た。心配してくれていたらしい。それを察したのだろう。首を軽く振り笑って答えていた。

「妊娠はしていませんでした。でも生理不順というだけで、特に悪い所も見つからなかったので良かったです」

「そう、なの」

 どう答えて良いのか戸惑ったのだろう。言葉を詰まらせた彼女だったが、香織はケロッとした顔で言った。

「それより聞いて下さいよ。私、朱音さんに教わった催眠術が出来るようになっていたんです。おかげで明日、赤坂先生達がここへ診察しに来てくれるようになりました」

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