第6話 穏やかな日々の崩壊~6

 ただでさえ、かつての親しい友人知人とだって極力関わらないよう生活してきた二人なのだ。少なくともこの三年間は、波風の立たない平穏な毎日を過ごしてきたのである。

 それがよりにもよって殺人犯と疑われている人物を、しかも世間では誰もが知る有名俳優の緑里朱音を部屋に招き入れるなんて、通常では有り得ない状況だ。

 そう考え香織も同じ思いだろうと判断し断ろうとした時、突然の訪問者を頭の先から爪先まで凝視ぎょうししていた彼女の口から、思わぬ言葉が発せられた。

「分かりました。こんな所では何ですから、とりあえず中に入ってゆっくりお話を伺いましょう。いいよね」

 こちらに視線を送り、同意を促された龍太郎は耳を疑った。だがその眼には先程までの戸惑いが消え、確固たる意志を感じた。

 その為少し迷ったけれど、首を縦に振り言った。

「あ、ああ、そうしよう。上がってください」

 そこでようやく安堵したのだろう。体中から凄まじいあつを放っていた緑里が脱力した。その途端、緊張感が漂っていた空気が一気に緩んだ。

「有難うございます。恩に着ます。出来るだけご迷惑をおかけしないようにしますから」

 目をうるませ何度もお礼を言う彼女を香織は抱きしめ、靴を脱ぐように言ってリビングへと連れて行った。おいおい、そんなに他人と接近していいのかよと心の中で警告しながらも口には出せず、龍太郎は玄関に鍵をかけてから残されたスーツケースを持ち跡に続いた。

 部屋に入ると、緑里をソファに座らせた香織はその横に腰かけ何やら話していた。彼女は躊躇ためらっていたようだが、それに応じて何やら呟き頷いている。

 その様子を眺めながら龍太郎はスーツケースを横に置き、少し離れた場所にあるダイニングテーブルの椅子に腰かけ声を掛けた。

「あの、本当に俳優の緑里朱音さんご本人なんですよね」

 こちらを向いた彼女は頷いて答えた。

「はい、そうです。もしかしてニュースをご覧になりましたか」

「見ました。柳畑議員が亡くなった件で、警察等はあなたの行方を捜しているようですね」

 そこで香織が話をさえぎった。

「今、その話は止めようよ。少し朱音さんを休ませてあげて」

 今までほとんどされたことの無い強い口調にひるみ、口をつぐんだ。しかも目を丸くして二人を眺めていた龍太郎を無視するかのように、一転して優しい声色で言った。

「何か飲まれますか。冷たいほうじ茶ならすぐ出せますけど」

「有難うございます。ではお言葉に甘えて、ほうじ茶を頂けますか」

 香織の柔らかい態度につられたのだろう。テレビで耳にしたことがある独特の声で緑里は答えていた。先程までの切羽詰まったトーンと全く違う。この時改めて、目の前にいる人が本物の緑里朱音だと認知した。

 となれば買い物から帰ってきた際、香織が見かけた人物はやはり彼女だったのだ。親戚である溝口の所に来ていたと思われる。

 しかし彼女は龍太郎に匿ってくれと言っていた。つまり一旦は東京から溝口を頼って名古屋まで来たが、テレビなどで行方を捜していると広く世間に伝わったからだろう。迷惑がかかると思い、逃げ出したのかもしれない。

 それならどうしてまだこのマンション内に留まっていたのか。それに彼女は何故出頭せず逃げているのか。無実ならば堂々と出て行けるはずだ。

 けれど彼女の雰囲気から、人を殺してしまったという気配は全く感じられない。先程まで怖がっていたが、今は香織に気を許している。

 殺人犯として逃亡しているのなら、まだ見知ったばかりの相手にあのような態度を取るものだろうか。それとも俳優だから演じているのだろうか。

 そう疑問に思いながら、キッチンに移動してお茶をコップに注ぎ彼女の元へと運ぶ香織の姿を、龍太郎はぼんやりと見ていた。緑里が礼を言い、喉を潤している。そこからまた小声で二人は何やら会話を交わしていた。

 先程も心配したが、他人とマスク無しの至近距離で話すのはリスクが高い。彼女は芸能人だから、さすがにワクチン接種を済ませているに違いない。それでも新型コロナに感染している可能性は否定できないのだ。

 けれど一般人よりは多くの人と共演し接する機会がある為、かなり厳しい感染対策を取っているだろう。それなら大丈夫かもしれないとも思い直した。

 二人はまだ話をしている。こちらに聞かれたくない何かがあるのか。いや、女同士だけで話した方が打ち解けやすいだろうと、香織が気遣っているのかもしれない。それならこちらはしばらく黙っていようと決めた。

 だがしばらくして緑里がお腹の辺りを押さえた。それを見た香織が背中をさすりながら言った。

「大丈夫ですか。少し横になりましょう。隣の部屋に布団を敷きますから、しばらく休んでください」

「いえ、お気遣いなく。大丈夫です」 

 緑里は首を振っていたが、ひたいに脂汗をかいている。以前から体調が優れないのならいいが、勧めたほうじ茶が合わなかったのなら申し訳ない。それどころか新型コロナに感染し熱が出ているのなら大変だ。隔離かくりする必要があるだろう。

 その為龍太郎は慌てて立ち上がり言った。

「遠慮しないで下さい。今用意しますから、こちらで横になられた方がいいと思いますよ」

 そのまま彼女の荷物も一緒に移動させ西側の洋間へと入り、クローゼットから予備の布団を出し床にいた。つい最近晴れ間が続いた時、使っている布団と一緒に干したばかりなので湿気は含んでいないはずだ。

 有無を言わせぬこちらの行動に、緑里も断れなくなったのだろう。香織がさらに促した為、彼女はゆっくりと歩きながら近づいてきた。

「すみません。何から何まで良くして頂いて」

「いいんですよ。ここで倒れられたら、それはそれで困ります。ゆっくり休んでください」

 香織が告げると彼女は礼を言った。

「有難うございます。ではそうさせて頂きます」

 何度も頭を下げながら、彼女は掛け布団をかぶり横になった。それを見届けてから龍太郎達は引き戸を閉める。そうしてソファに腰かけた。

 すると香織が呟くように言った。

「ごめんね。勝手な真似をして」

「いや。それはとりあえず置いといて、これからどうする。匿ってくれと言っていたよな。スーツケースを持っていたのはどういうことだろう」

 同じく小声で話すと彼女は首を傾げた。

「どうって」

「だっておかしいだろう。テレビやネットの情報だと、ホテルのパーティーに出席していた柳畑と揉め、そこから姿を消したはずだ。そのままタクシーに乗って東京駅へ向かい、新幹線で名古屋まで逃げてきたというのなら理解できる。でも荷物を持っているってことは、一旦家に戻り逃走の準備をしたのかもしれない。だけどそんな時間があったのかな」

「あっ、そうか。ニュースでは伏せていたけど、緑里さんがいなくなった時点で行方を捜すはずよね。警察の動きが間に合わなかったとしても、マネージャーがいたなら自宅へ探しに行くでしょうし、準備している時間なんて無かった。そう言いたいのね」

「そうだ。香織はさっきあの人と何か話していたけど、何か聞いたのか」

 そこで彼女は言葉を詰まらせ、首を捻って隣室に視線を移した。扉は閉まっている。だが聞き耳を立てているかもしれないと思ったからか、こちらに顔を近づけて耳元で囁くように言った。

「彼女、妊娠しているみたい」

「は?」

 全く想定していなかった言葉を返され絶句していると、彼女は話を続けた。

「それ以上は詳しく聞いていないから分からないけど、おそらく最初からこっちへ来る準備をしていたんじゃないかな」

「ど、どういうことだよ」

「パーティーが終わった後、すぐ名古屋に向かう用意をしていたとしたら、スーツケースはホテルのフロントかどこかに預けていたのかもしれない」

「に、妊娠しているって、緑里さんって独身じゃなかったか。相手は誰だよ」

「そんなこと知らないわよ。ただ玄関先で見た時、体のラインがふっくらしていたからもしかしてと思ったの。それでさっき尋ねた時に、最初は否定していたけどしつこく聞いたら頷いた。だから妊娠しているのは間違いないみたい」

 そこでようやくに落ちた。他人を部屋に入れるなんてまずしないであろう彼女が、いくら相手が有名人だからといって、あっさり招き入れた行為を不思議に思っていたのだ。

 しかし相手が妊婦だと気付き、まずは安静にさせなければと判断したのなら人として当然の行動である。それに彼女は二人と同い年だ。よって高齢出産になるのは間違いない。

 妊婦というだけで様々なリスクがあるはずだ。大した知識は持っていないが、それでも三十五歳を過ぎての妊娠は難しいことくらい龍太郎でも分かる。だから彼女を部屋に匿い、布団に横たわらせ休ませたのは正解だろう。

 しかし何故彼女は溝口さんの部屋から出て、上の階のここまで来たのか。

 新たな疑問が頭に浮かんだ瞬間、インターホンが鳴った。二人共びくっとして目を合わせる。こんな時間に誰だろう。この部屋を訪ねてくるのは宅配便の人くらいだが、最近注文した覚えはない。

 先に香織が立ち上がり、恐る恐るカメラを覗く。そこで目を見開き、手を激しく振り龍太郎を呼んだ。通話ボタンを押さない彼女の行動をいぶかしく思いながら、小走りで近づいた。

 横から画面を覗いた龍太郎は同じく目を丸くした。そこにはスーツを着てマスクをはずした男が二人映っていたからだ。

 しかもマンションの外部ではなく玄関先に立っている。もちろんマンションの住民でないと直ぐに分かった。他に誰かと考えた場合、部屋の中に緑里がいる状況から想像すれば、制服姿ではないけれど警察の可能性が高い。

 香織もそう思ったから龍太郎を呼んだに違いない。

「どうしよう」

 小声で聞かれたが、どう答えれば良いのか迷っている間に再びインターホンが押された。このまま居留守を使おうか。一瞬そう考えたが、それだと余計に怪しまれる。

 そう判断し、思い切ってボタンを押した。

「はい」

 龍太郎がそれだけ言うと、向こうの声がした。

「突然申し訳ございません。少しお伺いしたいことがあるのですが、宜しいですか」

 表札に名前は載っていない。だからこの部屋が仁藤家だと知って訪問しているのか不明だ。しかもマンション内にいる状況から、一度どこかの家に訪問しロック解除され入って来たのだろう。

 そこで尋ねた。

「どちらに御用ですか」

 すると相手が答えた。

「実は私共、警察のものです」

 同時に胸元から出した身分証をカメラの前に提示した。初めてだったが、刑事ドラマなどで見るものとよく似ている。上に警察の紋章があり、下側に本人の顔写真と名前等が書かれていた。

 本物かどうか画面越しでは判別しかねるが、そもそも見慣れていないので見分けられる訳もなく、また相手が嘘をつく理由もない。

 それでも時間を稼ぐ為、慎重を期して質問した。

「どういったご用件でしょう。もう玄関先にいらっしゃるようですが、どうやってマンションに入って来られたのですか。ここはオートロックのはずですが」

「すみません。先に下の二〇一号室へ伺いました。しかし私共の探している方がいらっしゃらなかったので、このマンションの他の部屋の方全員にお話を伺っています。先程三〇一とお隣の方からもご協力を頂いた所です」

 間違いない。溝口の部屋へ真っ先に向かったのなら、彼らが探しているのは緑里だろう。香織と視線を合わせる。彼女の目は潤んでうれいを帯びた顔をしていた。

 その表情から大事おおごとにはしたくない気持ちと、匿いたいとの思いが葛藤している心情が読み取れた。

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