第32話 行動~7

 それでも何とか回復しようと踏ん張り、一度は復職を果たした。けれどしばらくして両親と姉が事故死し、家族を一気に失ったことで再び心に傷を負った。

 もちろんそれだけではない。会社も当初は体調を気遣い、配属先だってストレスがかかる前線から遠ざけてくれた。

 だが龍太郎の場合はその原因が外ではなく内部にあった為、根本的な解決にはならなかった。よって上司が変わった途端、理不尽なパワハラを受けるようになったのだ。

 心と体は繋がっている。うつ病に罹り、そう強く実感するようになった。ある程度治まっていた動悸や頭痛が再び酷くなり、翌年には二度目の休職を余儀なくされたのだ。

 本音を言えば、あの時は前回と違って復職しようという気力が余り無かった。あの会社で働くこと自体、もう無理なのだと感じていた。

 体が拒絶反応を示しているのだ。その苦しみから解放されるには撤退するしかない。そう割り切って休養すれば、体は少しでも回復するだろう。会社を辞めたとしても次に社会復帰しやすくなるはずだ。

 そう考え、最大三年半の休職期間中も給与は支給され、借り上げ社宅に格安で住めるという利点を生かし、メンタルクリニックに通院しながら療養に専念していたのである。 

 一度目が九カ月ほどで復職できた為、今回だって一年も休めば何とかなるだろうと思っていた。しかし現実はそう甘くなかった。もう心の中では会社を辞めると決めて肩の荷を下ろしていたはずだったが、体はなかなか思う通りに動かなかったのだ。

 一回目と違い、姉がいないために面倒を診てくれる人が不在だった点も影響はしていただろう。ただ月に一回、上司が担当医と面談して回復状況を確認し、休職期間を延長するかどうかの判断を行うのだが、それ自体ストレスに感じていたことも確かだった。

 それまでの経験から、どういった状態になれば回復基調にあるとの目安は、自分でも理解していた。改善しつつあるかと思えば、ある時突然症状が出る。そうした波が徐々に小さくなり、やがて体調のいい日が長く持続するようになれば先は見えてくるのだ。

 けれど二回目になるとなかなか波が治まらなかった。それどころか症状が相当悪化する日も何度かあった。そういう時は頭を空にする為、ひたすら寝て休むしかない。

 ただそうした日々が続くと外出もできなくなる。回復に必要な運動だってできない。その為に改善の兆しがなかなか見えてこないのだ。

 そんな日々が続き、気付いた時にはもう三年を過ぎて期限が迫っていた。認められた休職期間を過ぎても復職できなければ退職するしかない。そうなれば社宅から出なければならなかった。よって残りの半年は、退職後の身の振り方に頭を使わざるを得なくなった。

 幸いにも住む場所は、親が残してくれた名古屋のマンションがある。相続してからは、管理会社を通じて人に貸し出していた。

 自分がそこに引っ越すのなら、今住んでいる人には立ち退いて貰わなければならない。そうした手続きを行いながら、名古屋で再就職できる先などもネットでこっそりと探していた。

 実際に会社を辞めてしまえば、毎月面会する上司とも顔を会わせなくて済む。そうなれば、社会復帰もできるのではないかと信じていた。けれどうまくいかなかった。

 面倒な退職手続きを済ませ、名古屋に移り住んだ時点で疲れ果てたのだろう。またしばらくの間、体が動かなくなった。とてもではないけれど、外で働ける状態まで戻れなかったのだ。買い物に出かけることすら、まともに出来なくなっていたのだから。

 その様子を見て心配してくれたのが、同じマンションに住む幼馴染の香織とその母親だった。彼女も父親を亡くし、辞めて間もない頃だったから大変だったはずだ。体調を崩した母親も同じで、香織の世話になっていたから余計である。

 両親と姉が事故死した際も葬式などで助けられたけれど、それ以上の世話をしてくれたのである。困った時はお互い様だと言ってくれたが、彼女達がいなければ今頃龍太郎の部屋はゴミ屋敷となり、その中で野垂れ死んでいたかもしれない。それは決して大げさでは無かった。

 けれど二人による援助もあり少しずつ回復し始めたところで、香織の母親が病死したのだ。その為同じく身内を全員亡くし、一人きりになった同士で傷を舐め合うようになった。

 お互いの部屋を行き来して他愛のない話を交わし、時には親達を思い出して泣き、将来の不安に怯え励ましあった。

 時には小学生の頃まで遡り、思い出話に花を咲かせたこともある。あの頃、龍太郎は急に冷たくなったよねと責められ、いやそれはマンションが一緒になってから同級生達にからかわれたせいだと言い返した。

 それにしても中学から高校卒業まで含めて八年以上、学校ではほとんど口を利いてくれなかったとねられた。さらに初恋ではないけれど、当時龍太郎が好きだったと告げられたのだ。それがここに引っ越してくる少し前からだったらしい。

 よって偶然同じマンションに引っ越すと知った時、彼女は興奮して夜も寝られなかったという。けれど途端に距離を置かれ、辛い思いをしたのだと言った。今となっては笑い話だけどね。そう告白された時、龍太郎は頭を下げて真剣に謝った。

 その上で実は自分も憎からず想っていたのだと白状し、だからこそからかわれたくなかったのだと、あの頃の愚かな行動に隠された気持ちを説明した。また高校の時は香織に彼氏が出来たと知り、自分でも驚くほど動揺したとも告げた。

 三十年余り経っての暴露により、二人の距離は急激に縮められた。その結果、これからの人生は二人で支え合おうと決めたのである。籍を入れるかどうかはしばらく揉めたが、経済面等も含め将来的に色々都合がいいとの結論を経て夫婦となったのだ。

「どうしたの。ぼうっとして。調子が悪いの」

 顔を覗き込むように香織に話しかけられ、我に返る。彼女が朱音と女子トークに花を咲かせている間、いつの間にか昔の思い出にふけっていたようだ。

「ごめん。何でもない。ちょっと考え事をしていただけだよ」

「本当? 色々あったから疲れちゃったんじゃない」

 そう気遣ったからか、朱音までもが不安げな表情を見せて言った。

「ごめんなさい。私が面倒に巻き込んでしまったからですよね」

「いえいえ。それとは全く関係ないです。ふと昔の記憶がよみがえることって、時々ありませんか。ただそれだけですよ」

 すると思い当たる事があったらしく、彼女がしゃべり始めた。

「あります。そうなんですよね。龍太郎さんの場合とは少し違うかもしれませんが、ちょっとしたきっかけで頭の中の引き出しから、忘れていたはずの出来事が飛び出したんだと思います」

 何の話かと首を傾げた所、どうやら柳畑の件を言っているようだ。龍太郎は昨晩彼女から説明された時の様子を思い出した。

 彼女の説明によれば、後に国会議員となった柳畑の父親は当時県会議員をしていたという。まだ現在のような地盤を固める前だったからか、息子の幸助は苛められていたらしい。

 それでも父親ゆずりの負けん気の強さなのか、下級生や女子といった弱い者には強がっていたそうだ。そこで目を付けられたのが朱音だった。

 十歳で芸能事務所に所属したこともあり、その頃から周囲にいる子達と比較すれば、圧倒的に可愛かったと思われる。だからなのか、ある日柳畑は彼女を人気のない公園に呼び出して告白したというのだ。

「告白って、小学生ですよね。しかも今と違って三十数年前なら、相当ませた子だったんじゃないですか」

 香織の質問に彼女は頷いた。

「同級生の一部に苛められていたとはいえ、県会議員ともなればそれなりに頭を下げる大人達がいたのでしょう。そういう人達に坊ちゃんと呼ばれて、いい気になっていたのかもしれません。でも実際は小心者でした。というのも、私を呼び出したまでは良かったのですが、そこから顔を真っ赤にしてしばらく何も言えず黙っていましたからね」

「それでどうなったんですか」

「私が帰ろうとしたら、やっと口を開いて付き合ってくれと言われました。もちろんすぐに断りましたよ。そうしたらそれまで彼は緊張していたのと振られた悔しさからか、粗相そそうをしたのです」

 見ている内に染みが広がり、悪臭まで漂ってきたらしい。それが相当恥ずかしかったのか、逆切れをして怒鳴って来たそうだ。

「この事は絶対誰にも喋るな。もし話したら、ただではおかないぞ」

 そう言ったかと思うと、いきなり頭を下げ始めたという。

「お願いだ。絶対に誰にも言わないでくれ。何でもするから」

 怖くなった彼女は逃げ出すことも許されずどうしようかと考えた末に取った行動が、彼に催眠術をかける事だった。それが上手くかかったらしい。

「どういう催眠をかけたのですか」

「私が手を一回叩いたら、今起こった事は全て忘れる。そう言いました」

 そこまで聞いて、龍太郎は香織と顔を見合わせた。そして恐る恐る質問をした。

「もしかして、その催眠が日曜日に開かれたパーティー会場で解けたのですか」

「はい。そのまさかでした。催眠がかかった隙を狙って逃げた私は、解かないままその後転校したので、あの人とはずっと会っていなかったのが災いしたようです。彼が国会議員になった後でも、仕事などで会う機会がないよう注意していたので、あの日突然予告なく現れ再会したのは全くの偶然でした。しかも間の悪い事に私が別の人と談笑している際、手を叩いてしまったのです」

「それが二回だった」

「そうなんです。それで近くにいた彼の催眠が解けたのでしょう。いきなり私の腕を掴み、非常階段まで連れて行かれました。信じられないかもしれませんが、本当の話です」

 それでようやく腑に落ちた。何故柳畑は自ら防犯カメラを隠すような真似をしたのか、ずっと疑問だったのだ。それは過去の屈辱を思い出し、口止めする姿を誰にも見られたくなかったからに違いない。

「腕を掴まれた時に離してと言ったら、彼は小声で公園での件は誰にも言っていないだろうな、と呟いたのです。それで思い出しました。だから余り抵抗せずついて行ったのです」

 そこから頭を下げられ、昔と同じ言葉を繰り返した為に確信したという。それでしつこく食い下がる彼の胸を押しのけ、扉を開けて逃げたというのだ。

 謎が解けた昨夜の話の記憶を遡っていた龍太郎は、そこで気付き尋ねた。

「そういえば、ネット通話で事務所の人から柳畑と何があったのか聞かれた際、昔の話まではしませんでしたよね」

 彼女は苦笑いして言った。

「さすがに三十年以上前の催眠が解けたのが原因だなんて、私も言えませんよ。マネージャーの野垣や社長は、私が催眠術をかけられると知っていますけど、それでもね。特に野垣は良くかかったから、説明すれば信じてくれたかもしれません。だけど状況が状況でしょ。妊娠の件もあったし、余り不信感を抱かせる話はしない方が良いと思ったんです」

「そうですね。私も香織がかけられたのを見ていなかったら、信じられなかったでしょう」

「だから社長達には柳畑が小学生の頃の先輩で知り合いだったけれど、非常階段に連れて行かれた理由は正直よく分からないと誤魔化したの」

「転校してからは一度も会っていなかった件を強調した上で、恐らく朱音さんの知名度を利用して何か企んでいたらしいと言っていましたね」

「事実を交えて話せば、信憑性が上がるでしょう。突然頭を下げられたと言ったのは、彼が自分で防犯カメラから視界を遮った理由にも繋がるしね。内容を詳しく聞く前に怖くなって彼から離れたと言えば、もっともらしく聞こえるでしょ。警察に出頭して事情を聞かれても、同じようにしか言えないから」

 あの刑事達に実際交わされた会話の内容を告げれば間違いなく嘘だと決めつけられ、突き落として殺した理由が何か別にあるはずと疑われるだろう。

 これを証明するには、刑事達の何人かに実際催眠をかけてみせるしか方法はない。それでもその先の検察や裁判所で信用してくれるかといえば、疑わしいとしか言えなかった。

 この点は昨日聞いた際も思ったが、かなり厄介な問題である。しかしこれも今考えて悩んだところで、直ぐに良い答えは出ない。

 その為一旦話を終えて食器を片付け始めた。その後は昨日同様、お風呂にお湯を入れて順番に入るだけだ。昨晩は催眠術や過去の話などをしていたが、今夜どうすごそうかと悩んでいた。すると朱音がお風呂に入っている間、香織に相談をしたところ彼女は言った。

「昨日、朱音さんと話をしていた時、普段はどうしているのかを聞かれたの。だから録画している映画とかドラマとか、お笑い番組を観ているって答えたら、私も見たいって言っていたのよ。でも昨夜は催眠術の件で時間が潰れたでしょ。だから今日は三人が良いと思うものがあれば、それを観ればいいんじゃないかな」

「本当に? だったらドラマや映画よりは、お笑い番組の方が良いだろう」

「そうね。録画も余り溜まり過ぎるのもなんだし。お笑いは好きだって言っていたから、その中で朱音さんが見ている番組があればそれにしようか」

「そうだな。彼女がお風呂から上がって、香織が入っている間に俺が聞いておくよ」

「お願いしていいかな」

「いいよ。少し笑って肩の力を抜かないと、気が張ってばかりいたらもたないからな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る