ソーシャル・ディスタンス

しまおか

プロローグ

 コロナにおける緊急事態宣言がようやく解除された二〇二一年十月最初の日曜の夜、緑里みどりさと朱音あかねは直前まで開催が危ぶまれた大手広告代理店主催のイベントに出席していた。

 それでも東京都におけるリバウンド防止措置にのっとり、感染対策として入場前の検温やマスク着用はもちろん、人数制限をした上で立食形式のビュッフェも個人単位で取り分けするよう徹底されていた。

 テーブルなど各所にアクリル板が設置され、会話をする際は出来る限り大きな声を出さず、そうした場所を使用するよう告げられていた。酒類の提供も原則禁止で夜九時までに解散となっている。

 しかし始まってみればなし崩しとなり、時間を過ぎても酒を片手に各所で体面会話が続いていた。やや離れた場所で眉をひそめながら、そうした光景を見つめていた朱音は溜息をついた。

 こんなところで酔いたくなどないし、長い間滞在していれば感染リスクも高まり体にさわる。その為ノンアルコールのシャンパンを手にしたまま、隣に立っている野垣のがきに小声でささやいたいた。

「もう帰っていいでしょ」

 彼は眉間にしわを寄せ、呟くように答えた。

「主だったスポンサーへの挨拶は済みましたが、俳優の諸先輩方はまだいらっしゃいます。もう少し我慢してください」

 確かに五、六十代の大先輩達が数人残って談笑している。だが大半は四十五歳の朱音より年下ばかりだ。彼らはこうした場所で顔を売り、次の仕事に繋げようと必死だから最後までいるに違いない。そこで言った。

「あの人達は主役クラスじゃない。私のような脇役レベルがいつまでもいたら邪魔でしょ」

「何を言っているんですか。今や押しも押されもせぬバイプレイヤーのあなたを使いたいスポンサーは、いくらだっています」

「そんなことを言ったって、私は明日から休みに入るの。知っているでしょ。今から仕事を貰っても受けられないわよ。その先だって、ぎっしり予定が埋まっているじゃない」

 朱音の反論に再び彼は不機嫌な表情をした。

「本当に六か月も休むつもりですか」

「何よ、いまさら。社長にも了承を得ているのよ。それに最近はいつもそれくらい休んでいるじゃない」

「確かにそうですけど、連続してというのは今回が初めてでしょう」

「いいじゃない。直近の半年はほとんど休まず仕事をしてきたでしょ」

 特にここ二年はコロナ禍の影響で撮影が大変になっていた事情もあり、三カ月働いたら少なくとも三カ月は休む、というサイクルで仕事を受けてきた。 

 それもこれまでの働きで、事務所の売り上げに相当貢献してきたからできることだ。また俳優の場合は休んでも、複数のCMに出演していれば世間の人達から忘れられる恐れは無い。だから長期休暇を取りたいという今回の申し出に、社長はすんなり応じてくれた。

 けれどマネージャーからすれば不服らしい。といっても会社が正式に認めたものだ。

「連絡はいつでも取れるようにしてくださいよ」

 そう告げるしかできなかったのだろう。しかし朱音は首を振った。

「電話は出ないわよ。何かあれば、いつも通り例の方法で連絡してくれればいいから」

「定期的に見てくださいね。本当にどこへ行くか、社長にも知らせないつもりですか」

「ゆっくりしたいのよ。心配しないで。コロナ禍がまだ完全に治まっていない状況だから、海外はそう簡単に行けないし行かないから。ワクチンは打ったけど、わざわざ接種証明書を取るのも面倒だしね」

「だったらまだいいですけど」

「いつまでもごちゃごちゃ言わない。余りしつこいようだと催眠をかけちゃうわよ」

「や、止めてください。分かりましたよ。もう言いませんから」

 野垣にはこの脅しがよく効く。ただ全くかからない社長には通用しない。後ずさりしておびえる彼が少しだけ可哀そうになった為、優しく言った。

「たった半年よ。もうこの話は終わり。私はそろそろ帰るから」

「本当に帰るんですか。もう少しだけいて下さいよ」

 引きめようとする彼の手を振り切るように、ホテルの宴会場から出ようとしたその時だ。急に会場がざわつき始めた。異常にいち早く気づいたのは野垣だった。

「何故こんなところに、あんな奴が」

 朱音の目にもその姿が映る。周辺の反応にも納得した。だが当の本人は全く意に介さず、大声を出して挨拶をし始めた。

「やあ、やあ。ご無沙汰しております。ああこれは、これは、」

 衆議院議員の柳畑やなぎはた幸助こうすけが、某大手企業の役員の元に近づいていく。恐らく顔見知りなのだろう。だが相手の表情は明らかに強張こわばっている。声をかけられた手前、無視する訳にもいかず戸惑っているようだ。その様子を見て、少しずつ遠ざかっていく人達が何人かいた。

 それもそのはず、柳畑は暴力団のフロント企業による違法な献金を受けた容疑で逮捕されており、現在は五千万円を支払って保釈中の身だからだ。有罪判決を受けておらずまた無罪を主張しているからとはいえ、議員辞職もしていない。

 その上捜査中だからという理由で国会を含め、記者会見も開かず説明責任を果たしていないと、野党議員や国民から非難を浴び続けている人物だ。そんな彼と今のタイミングで親しく会話でもしようものなら、同じ穴のむじなと誤解されかねない。

 といっても今月の二十一日には衆議院議員の任期が切れる。先日与党の総裁選挙が行われ、近い内に総選挙の日程も決まると言われていた。今のところ離党し無所属になった彼が与党での立候補予定はなく、まずできないはずだ。

 出馬の表明もしていないので、このままいけば衆議院の解散が宣言されるだろう今月の中旬にはただの人になる。だから皆、距離を置きたがっているに違いない。

 しかしこの国は法治国家だ。何人なんびとも有罪と宣告されるまでは、罪を犯していない人として扱われなければならない、いわば推定無罪の原則がある。刑が確定するまで決して罪人ではないのだ。

 朱音も柳畑は知らない仲でない。よって下手に声などかけられれば最悪だ。さっさとこの場を立ち去るべきだろう。そう考え彼が入って来た扉とは離れた所から出ようと、きびすを返した。

 しかしほんの十日ほど前まで同じドラマの撮影をしていた若手の俳優に、運悪く声をかけられてしまった。

「緑里さん、ご挨拶が遅れてすみません。先程からいらっしゃるとは気付いていましたが、タイミングを逃してしまいました」

 やむを得ず立ち止まり、距離を保ちながら挨拶を返す。

「別にいいのよ。気にしないで。それに折角の場なんだから、私なんかよりも話をすべき人は沢山いるでしょ。今がチャンスじゃない。どんどん売り込まないと」

 彼女と共演した作品は先日放送を終了したばかりで、比較的視聴率が良かった。よってそう言ったのだが、横にいた彼女のマネージャーは首を捻りながらぼやいた。

「そのはずなんですけどね。でもこの子の印象が薄かったのか、スポンサーの反応がイマイチなんですよ」

「あら、見る目が無い人もいるのね。いい演技していたわよ。評判も良かったはずなのに」

 彼女は頭を下げながら言った。

「有難うございます。朱音さんがおっしゃるように、ネットや評論家のコメントでは褒められているものが多かったんです。でも私って、同性から余り好かれていないイメージがあるからでしょうか」

 そうね、とは思ったけれど口に出せるはずもない。また早く話を切り上げたい気持ちが強かった朱音は、たしなめるつもりで二度ほど手を叩いた。

 思ったより力が入り、大きな音が出てしまって自分でも驚く。目の前の彼女達はもちろん、周囲の人が何事かと目を丸くしている視線を感じた。

 それらを無視して口を開いた。

「こらこら。私と違って綺麗な顔をしているし、体系だってずっと細いじゃない。贅沢言わないの。ちゃんと見てくれる人がいるから大丈夫よ。もっと自分に自信を持ちなさい」

「有難うございます。そうですよね。もう少しこの子を信じて売り込んできます」

 本人よりマネージャーがその気になったらしい。軽く頭を下げ、音に反応しこちらを見ていた某化粧品会社の役員達と丁度目が合ったようだ。そちらへ二人で歩いて行った。

 その後ろ姿を見送りながら朱音は言った。

「さあ、これで私は帰るわよ。野垣さん、明日からは上手くやって頂戴ね」

 そうして向かっていた扉へと再び足を向けた途端、視界の端に猛然と歩いてくる黒いスーツ姿の男が見えた。

 嫌な気配を感じた為、意図的に素知らぬ顔をして速足で出口へと踏み出す。その瞬間、腕をグッと掴まれた。驚いて振り向くと、険しい表情をした柳畑がいたのだ。

 これには野垣が慌てた。

「何をするんですか。やめてください」

 そう抗議すれば、会場にはそれなりの面々が顔を揃えている。無茶はせず手を放すだろうと誰もが思ったはずだ。

 しかしあろうことか、彼は朱音の腕を強く引きながら言った。

「ちょっと、こっちへ来い」

 なんと外へ連れ出そうとし始めたのである。この状況に焦っていたのは、朱音や野垣だけで無かった。

「せ、先生。急にどうしたのですか。まだ保釈中の身ですよ。今問題を起こしたら、また拘留されてしまいます」

 柳畑の秘書のようだ。年齢は六十半ば程のベテランに見える。彼は二世議員だから、先代より仕えている人なのかもしれない。

 けれど彼は全く聞く耳を持たず、どんどんと歩いて行く。下手に抵抗すると痛いしあざが出来てしまう恐れがある。転びでもしたらそれこそ大事になりかねなかった。

 それを危惧した朱音は、彼と同じように前へと進んだ。それでも素直に従ったと誤解されては困る。よって口で非難した。

「何ですか。放して下さい。どこに行くつもりですか」

うるさい。黙って俺について来い!」

 その後自分だけに小さく呟いた言葉に唖然あぜんとし、無理にあらがうのを辞めた。周囲が茫然ぼうぜんとしている状況の中、彼は片方のセカンドバックを持った手で器用に扉を開き、朱音と共に廊下へと出た。その後を秘書と野垣が続く。

 彼は歩みを止めずどんどんと進む。その先にはホテルの非常階段に続く扉が見える。どうやら彼はそこへ向かっているようだ。野垣達もそう検討をつけたのだろう。口では止めてください、止まって下さいと言い続けながら後をついて来た。

 この時朱音は無駄な抵抗を止めて一緒に歩いた。いざとなれば野垣が助けてくれるだろうし、また例え二人っきりになってもそう怯えなくていいと悟ったからだ。

 扉から二十メートルほど手前で、彼は一旦立ち止まった。そこから後ろを振り向き秘書に向かって怒鳴った。

連城れんじょう! お前はここで誰も来ないよう、見張っていろ」

「先生、どうするおつもりですか。お止め下さい。これ以上騒ぎが大きくなれば、私もかばいきれません」

「煩い! 言われた通りにしろ! たとえホテルの従業員だろうとも、ここから先は一歩も入れるな!」

 そう言い残し再び歩き始める。朱音がその後に続くと、後方で野垣が叫んでいた。

「どいて下さい! うちの緑里をどうするつもりですか!」

「すみません。ほんの少しの間、言う通りにして貰えませんか」

「出来る訳ないでしょう! 何の真似ですか。警察を呼びますよ!」

 二人が揉めている声を聞きながら、朱音はどこか冷めていた。本当に何の真似なのか。彼にこれほどの度胸があったのかと驚く。時や立場が性格を変えたのだろうか。しかし人の本質というものは基本的に同じだ。そう簡単にひっくり返せるものではない。

 そう考えている内に彼は扉を開けた。その先はまだ屋内で、ざっと見たところ十畳ほどの踊り場があり、コンクリートの階段が十数段ずつ上下に続いている。

 二十階と表示されている版の斜め上に、砲弾型の防犯カメラが備え付けられていた。手の平サイズの、ハンディカムホームビデオのような形をしているものだ。

 これがあればおかしな真似は出来ないだろう。そう安心したが、その期待は直ぐに裏切られた。何故なら彼はセカンドバッグから取り出した折り畳み傘を広げ、さらにS字フックを使ってカメラに引っ掛け見えなくしたからである。

 朱音は聞かずにいられなかった。

「どうしてそんなものを持ち歩いているんですか。こんなことをしたら、カメラを監視している警備員が飛んでくるはずです。それに私がここで大声を出して叫べば、あなたは間違いなく捕まるでしょう。それでもいいんですか。保釈も取り下げられて収監されますよ」

 すると彼は予想に反した態度を取った。いきなり頭を下げたのだ。しかも先程までの威勢はどこにいったのか、体を小刻みに震わせながら消え入るような声で言った。

「お願いだ。絶対誰にも言わないでくれ。何でもするから」

 最初は驚きの余り言葉を失った。しかしなかなか顔を上げない彼の真っ赤になった耳や頬を見て、当時の記憶が鮮明に蘇ったのだ。まるでかつて見た状況と同じである。

 そこでもしかしたら、あの時に戻ったのかもしれないと気が付く。若手俳優と会話していた際の行動が、きっと引き金になったのだと合点がてんがいった。

 そうと分かれば怖がる必要は無く、彼に用などなかった。

「言いませんよ。何十年も前の話ですから。もういいですか。私はここで失礼します」

 そう言って扉を開け出ようとしたが、彼は再び朱音の腕を掴んだ。

「待ってくれ。本当に誰にも言わず、黙っていてくれるのか」

「当り前です。ずっと忘れていたのに、今更言える訳ないでしょう。もう離して下さい」

 腕を振りほどいたが、さらに彼が詰め寄って来た。その為軽く彼の胸を突き飛ばし距離取った隙に、扉を開け廊下へ出て素早く閉めた。

 今日はこれから東京駅へと向かい新幹線に乗る予定だ。早く行かなければ到着時間が遅くなってしまう。相手にも迷惑をかけたくないと思い、朱音は小走りになる。

 進んだ通路の先に、先程連城と呼ばれていた男と野垣が立っていた。二人は朱音の姿を見てホッとしたのだろう。だがこちらに用はない。

 無視してその先のエレベーターに乗る為ボタンを押す。しかし野垣だけがついて来た。

「大丈夫でしたか。何もされませんでしたか」

「何もないわよ。今度こそ帰るから。何かあったらDMダイレクトメールで連絡を頂戴」

 朱音はそう言い残し、丁度開いたエレベーターのドアへと小走りに向かった。慌てた様子で走ってきた、ホテルの従業員が背後を通り過ぎる。

 多分防犯カメラに細工をしたからではないかと当たりがついたけれど、朱音には関係ない。まだ何か言いたげな表情をしていた野垣に見送られ、エレベーターの扉が閉まり一階へと降りた。と同時に持っていたスマホの電源を落とす。これでしばらくは誰とも連絡が付かないだろう。

 しかしそれが大きな間違いだった。その後とんでもない騒ぎに巻き込まれるなど、全く想像をしていなかったからだ。あの時既に心は別の所にあって、その事ばかり考えていた為だろう。

 その行動が全く見も知らぬ人達の人生をも狂わすとは、夢にも思っていなかった。

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