第9話 匿ってはみたものの~2
休職中は給与も出ていたので生活費には困らなかった。しかも年収が一千万円近くあったから、手取りだけでも七百万円程支給されていた。そこから姉には世話代として、パートで稼ぐ賃金以上を支払った。もちろん食費や光熱費などの生活費は全て龍太郎持ちだ。
そうした生活を九カ月ほどし、医者からは一カ月ほどかけて徐々に会社へ復帰しても良いと許可が出た。その後正式に復職できたのである。姉はその姿を見て実家へと戻った。
その後龍太郎は大宮の総務部付で異動となる。それまで営業だったが、復職したとはいえ外回りの仕事を続ければ、いずれ再発するかもしれないと会社側が考慮した結果らしい。
うつ病は完全に回復するまで時間がかかる。復職してからも通院は続けていたし、薬も処方されていた。一時的に良くなったからといって、安心できないのがこの病気の厄介なところだ。しかしガンのような直接命に係わる病気ではない。
だから時間をかけ、少しずつ体を慣らしストレス耐性をつけていけば、いずれ営業に復帰できると思っていた。決して仕事自体を嫌ってはいなかったからだ。
けれどそう簡単にいかなかった。最初のきっかけは、両親と姉が交通事故に遭って亡くなったことだ。ある休みの日、父親の運転で三人が外出した際、スピードを出し過ぎてコントロールを失いセンターラインオーバーした対向車と正面衝突したのである。
車は互いに大破し、相手の若い男性運転者も死亡。生き残ったのは向こうの助手席に乗っていた女性だけだ。それでも全身を強く打ち、一時意識不明の重体にまでなったという。
警察から連絡を受けた龍太郎は、急いで名古屋に戻った。その後三人の葬式や唯一の遺産相続人となった為、様々な手続き等に忙殺された。両親には共に兄弟がおらず親も既に亡くなっていた為、関係する親戚など一人もいなかったので多少助かったとは思う。
それでも一旦大宮に戻ってから事故における示談などがあり、次から次へと面倒に巻き込まれた。そうして精神的なストレスが、少しずつ蓄積されたからだろう。再び体調を崩し、会社も休みがちになった。
やがて医者の診断により、もう一度自宅療養するよう言い渡されたのだ。二度目の休職期間は前回と違い、姉のように世話をしてくれる人がいなかったからだろう。なかなか容態は回復しなかった。
その為十年以上勤務した社員に与えられる休職期間の三年半が経っても、復職できるまでは回復できなかった。よって退職し社宅を出た龍太郎は、両親が残してくれたマンションに戻って来たのだ。
大宮にいる間、この部屋は分譲賃貸として他人に貸し出していた。しかし会社を辞めた場合に備え期限を切っていたおかげで、すんなり引っ越しできたのは幸いだった。
ここでもしばらくは一人で暮らしていたけれど、途中から香織と彼女の母親の世話になった。彼女達には両親達が事故にあった際、その葬式や何やらの手伝いをして貰った。
その後三年半程前に母親が病死し、同じく一人になった彼女との関係が深まり、しばらく経ち結婚して今に至るのだ。ちなみに彼女も親戚との付き合いは全くなかった。
二回目の休職から八年。それ以前を併せると約十年間、龍太郎は療養の日々を過ごしてきた。その半分は寝て起きては食べて寝て、の繰り返しだった。散歩どころか買い物で外出することすらできなかったのだ。
けれども一度は復職できるまで回復した経験がある。また長い期間を経て、どのように過ごせば体の具合を安定させられるか徐々に分かってきた。さらにどういう事が起こると調子を崩すかも学んだ。
今の状況は体に変調をきたす流れだ。緊張を強いられ、通常の生活リズムが乱れている。先々に多くの不安要素があり、それらをクリアするには大変な労力が必要とされるだろう。
そう考えるだけで頭痛がし、鼓動が波打ち始めて息苦しくなる。
よって龍太郎は目を閉じ、ソファで体を休める態勢を取った。けれど本当に眠られはしなかった。現実離れした緊急事態により、脳の一部が興奮していたからだろう。
それでも寝ようと試みた。目を閉じ休息を取るだけで多少の効果はある。波立った心を静まらせ、落ち着きを取り戻す為に大きく息を吸い込んで吐く。それを何度か繰り返す。
その間、何も考えないまたは全く別の事に神経を注ぐ。そうしていると、徐々に動悸が治まってきた。頭痛も少し和らいだ。体のだるさも取れだした。
そこで自然と目が開いた。窓から青空が覗いており外はまだ明るい。今は何時なのかと気になり時計を見たが、三十分と経っていなかった。それでも気分はかなり楽になっている。
その時視線を感じたので目だけ横に向けると、隣室の引き戸が少し開いていた。そこからこちらの様子を覗いている香織の顔が見えた。
目を覚ましたからか、声を掛けられた。
「大丈夫?」
本気で心配してくれているのが、湿った声の調子で良く分かる。その背後から座った状態の緑里も顔を出し、不安気にこちらを見つめていた。
龍太郎は体を起こし答えた。
「ああ。少し落ちついた」
緑里が頭を下げ、今にも立ち上がろうとしながら言った。
「申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました。私は直ぐに出て行きます」
「いや、ちょっと待ってください。まだ駄目ですよ。朱音さんはもう少し横になっていないと。今無理しては体に毒です」
慌てて香織が止めていた。下の名前で呼んでいる様子から、多少打ち解けたようだ。そこで龍太郎も同意した。
「そうですよ。何事も体が資本です。大事にしないと後が大変になります。私の体調について香織から聞きましたか」
腰を上げかけた緑里は、再び座り静かに頷く。それを確認して言葉を続けた。
「でしたら心身における休息が、どれだけ大切かは理解されましたよね」
もう一度彼女は頷いた。
「私の場合は少し横になっていれば問題ありませんが、あなたは違うでしょう。下手をすれば命に関わります。しかも最悪の場合、一人だけでは済みません。生きていれさえすれば、例え時間がかかっても取り返しはつきます。でも死ねばそれで終わりですから」
龍太郎はそう自分が口にしたことで、モヤモヤとしていた気持ちがスッキリと晴れた。そうなのだ。命より優先されるものなど無い。両親や姉のように死んでしまったら、残された者が苦しむ。命があれば、その先には必ず光が見えてくるはずだ。自分がそうだったではないか。そう考えれば、今何を優先すべきかが自ずと見えてきた。
平穏な生活は乱されるだろう。警察に逮捕されるかもしれない。けれども彼女は悪い事はしていないと言った。いや例え殺人を犯していたとしても、必ず何か訳があるはずだ。その理由を確認してから判断したって遅くない。
そこで龍太郎は尋ねた。
「緑里さんがどうして逃げなければならなくなったのか、香織は聞いたのか」
彼女は背後に目を向けてから、静かに首を振った。
「まだ詳しい話は聞いていない。龍太郎の体の件と、私の話を少し説明しただけ」
「そう。彼女の体の具合はどうなんだ。まだお腹の痛みがあるのか」
香織が再度後ろを見て、同じ質問を彼女にした。
「具合はどうですか。まだ痛みますか」
「少し鈍痛がしただけで今は落ち着きました。もう大丈夫なのでご心配は無用です」
緑里の答えを聞き、龍太郎は質問した。
「それなら教えてください。昨日、何が起こったのですか。何故あなたは事務所と連絡を絶ち、その体で名古屋に来られたのですか。言える範囲で構いません。ただ多少は成り行きを伺っておかないと、匿うにしてもこれからどう動けばいいのか、判断できませんから」
今度は香織も止めなかった。彼女もそれを知りたかったに違いない。緑里が悪い人ではないと信じたいはずだ。それでも不可解な点がいくつかある。
彼女をこの部屋に避難させ続けるのなら、それなりの信頼関係が無いと難しい。明らかに悪党から追われているのなら無条件で助けるだろう。だがそうではないのだ。
龍太郎達は黙って彼女の口が開くのを待っていた。しばらく沈黙があってから、意を決したのだろう。ぽつぽつと昨夜の会場での出来事を話し出したのである。
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