第8話 匿ってはみたものの~1
龍太郎は扉をゆっくり閉め、ドアロックと鍵を二つかけてから戻る為に振り返った。すると、リビングとの間にある扉の向こうで様子を伺っていたらしい香織が出てくる。
けれどまだ相手がドアの向こうで聞き耳を立てているかもしれないと思い、口に手を当てて戻るよう促した。意味を理解した彼女は黙ったままリビングへ引き返す。その後ろに続き扉を閉めソファに座る。
ここなら大声を出さない限り外には聞こえない。そこでようやく口を開いた。
「何とか乗り切ったよ。でも相手は警視庁捜査一課の刑事だからな。油断はできない」
「捜査一課? しかも警視庁の」
「ああ。名刺を貰った。緑里さんを見かけたら、ここに連絡してくれだって」
彼女に渡しながら玄関先でどういう質問をされ、何と答えたかをなるべく正確に伝えた。あとで
一通り説明し終わった所で隣の部屋から緑里が顔を出した。二人の話が聞こえたのだろう。彼女は頭を下げて言った。
「すみません。ご迷惑をおかけします。嘘までつかせてしまい、何とお詫びしたらいいか」
「いいえ。それより体の具合はいかがですか。もう少し横になっていた方が良いですよ」
そう告げたところでふと気が付いた。
「緑里さん。立たないで座って下さい。もしかすると窓の外から見えるかもしれません」
言っている意味を理解したのだろう。彼女は慌ててしゃがんで床に腰を下ろした。
ここは四階建ての最上階で、リビングの東側や北側の窓は擦りガラスになっている。その上白の薄い遮光カーテンを引いている為、まず部屋の中は覗けない。
しかし南側の窓は透明だ。同じく遮光カーテンがありベランダの手すりがあるけれど、立てば上半身だけ影が映る危険はあった。もし刑事達がマンション前を通る道路の反対側にある歩道から見上げれば、室内に三人いると気付くかもしれない。
道路を挟んで向こう側は木々が生い茂り、その奥に
考えすぎかもしれないが、もしここが見張られ双眼鏡で覗かれているとすれば、部屋の中は丸見えだ。そうしたリスクを回避する為、厚手のカーテンを閉めようかと一瞬考えた。
しかし思い直して止める。昼間の気温が高くなるこの時間帯にそんな行動を取れば、かえって怪しまれるからだ。夕方近くになったら室内が暗くなる為に電気を点ける。それまで我慢した方が良いと判断した。また西側の部屋にいれば、外から直接見えないので問題ないだろう。
だがいつまでもそこにいる訳にもいかない。トイレを使う場合はリビングに出る必要があった。その際は頭を下げて腰を低くするしかないだろう。とはいっても有名俳優であり、妊婦でもある彼女に無理な体勢を強いることは避けたいところだ。
ではどうすればいいだろう。そう考えた時、換気の為に窓を開けていることに気付く。万が一部屋の中での会話が外に漏れてはまずい。そこで香織に説明してから窓を閉め、代わりに冷房を付けた。
通常なら今頃の時期は冷暖房など必要なく、窓の開け閉めだけで室内の温度調整をしている。けれど幸いといっていいのか今年は外気温が三十度近くまで上がっており、決して不自然ではない。また部屋にいる人数が普段より一人増えれば、どうしても室温は上がる。
そうしてひとまず落ち着いた。けれど彼女をこのまま匿っていていいのかと、再び悩んだ。もう警察には一度嘘をついてしまっている。だが直ぐに彼女を外へ出し知らない振りをすれば、まだ犯人隠避の罪には問われずに済むかもしれない。
彼女も部屋に入る際、出来るだけ迷惑をかけないようにすると言っていた。ならば警察に捕まったとしても、二人の部屋に隠れていた件を話さないでくれるのではないか。今ならまだ間に合う。
そう思い、彼女の方を向いた所で目が合った。しかし不安げな眼差しを見た瞬間、今考えている頭の中を見透かされてると感じた。
反射的に目を伏せる。駄目だ。彼女の顔色は青白く、まだ額には汗を掻いていた。体調がまだよくないのだろう。そんな状況で部屋から追い出そうとすれば、香織は猛反対するに違いない。
ではこのままずっと彼女を部屋に匿うのか。それはいつまでだろう。第一彼女は本当に柳畑を殺していないのか。何も悪い事はしていないという言葉を信じて良いものだろうか。
それに何もしていないというのなら、素直に出頭して身の潔白を訴えればいい。なのに何故隠れる必要があるのか。事務所等とも連絡を絶っているのはどうしてなのか。
葛藤と様々な疑問が浮かび混乱してきた。まずい。こめかみに鈍痛が走る。
「大丈夫? 眉間に皺が寄っているけど、体調が悪くなったの」
隠しても直ぐにばれる。そう思い素直に頷いたが右手で左肩を揉み、首を傾けながら誤魔化して答えた。
「短い時間とはいえ、久しぶりに他人と話したから疲れたんだと思う。それに相手は警察だろう。さすがに緊張したからね。余計な所に力が入って肩が凝ったのかもしれない」
「龍太郎もちょっと横になったら」
「うん。少し休むよ」
ソファの背に体を預け、座ったまま目を
「ご主人、どこか悪いんですか。大丈夫ですか」
「ああ、はい。ちょっと」
言葉を濁していた為、龍太郎は目を開けずにそのままの状態で呟いた。
「言って良いよ」
気を遣ったらしい。香織はソファから立ち上がり、彼女と一緒に隣の部屋へと移動し扉を閉めた。恐らく二人について説明するのだろう。
刑事にも聞かれたけれど、平日の昼間に四十半ばの男が家の中にいれば、通常なら会社が休みだと思うはずだ。しかし違う。
龍太郎はうつ病に罹り、三年余り休職した挙句に会社を退職した。現在は四週間に一回のペースでメンタルクリニックに通い、抗うつ剤を処方され自宅療養中の身だ。
香織と同じ名古屋の中高一貫の進学校を卒業し、世間的には一流と呼ばれる東京の大学に合格し、卒業後は一部上場企業の大手保険会社に就職した。
最初に配属された仙台で知り合った一つ年下の同僚の女性と交際していた為、大阪への転勤が決まったのをきっかに結婚。だが地元から始めて外に出た彼女は、知り合いもいない関西の風土に合わなかったらしい。その為たった三年で離婚。その翌年に龍太郎は静岡へ配属された。
そこでは反りが合わない上司とよく衝突をしたからだろう。またいくつかの会社との合併などもあり、会社内での人間関係などがぎくしゃくし始めた時期だった。そうした心労が
忘れもしない東日本大震災があった年、朝目覚めると体がだるく起きられなくなった。頭も痛く走った後のように鼓動が激しく波打ち、胸の鈍痛がなかなか治まらない。とてもではないけれど、仕事ができる状態ではなかった。
その為会社を休み病院に行き診断を受けた。しかし体に異常は見つからず、心電図もとったが問題無かった。結果、単なる過労またはストレスによる疲れだと言われ、家で寝て休むしかなかったのである。
三日ほど休むとようやく回復したので会社に出社した。だがまた翌月には同じような症状が出た。そうした状況を繰り返している内にやがて精神内科を受診し、うつ病と診断されしばらく会社を休むようにと言われたのだ。
全くの想定外な病名を告げられ、自分が最も驚いた。今まで自分がメンタルに弱いなんて考えてもいなかったから余計だ。何かの間違いではないか。体のどこかが悪くそれで症状が出ているのではないかと疑い、いくつかの病院で様々な検査を受けた。
しかし結果は変わらない。
「あなたの場合、体が拒否反応を起こしているのです。これ以上会社に行きストレスを抱えれば、精神状態までもおかしくなるでしょう。そうなる前で良かった。これ以上症状が悪化していれば、入院しなければならなくなっていたかもしれません」
医者にそう告げられ、とりあえず休職し通院しながらの自宅療養を命じられたのだ。
けれど借り上げ社宅に一人で生活する環境だった為、周囲からは心配された。龍太郎の場合、自殺したいなどと思い悩むようなうつ状態にはならなかった。
けれど医者も含め、第三者が大丈夫だと判断する材料などない。よって当時まだ存命だった両親は、事情を聞き慌てて姉を寄こしたのだ。
四つ上の姉は一年前に離婚して実家に戻っていた為、比較的自由だったのが幸いした。
地元の銀行に勤めていた父親は、定年を迎えていたけれどその後関連会社で働いており、専業主婦だった母親は彼の世話をしなければならなかったからだ。その世代は一人だと何もできない男が多く、父もその一人だった。
その点姉には別れた理由の一つでもあったが、十年間の結婚生活で子供もできなかった為、世話をする人はいない。よって実家に住み着き近くのスーパーでパートをしていた。その姉が両親に龍太郎の面倒を看るよう促され、パートを辞めて静岡の部屋に移り住んでくれたのだ。
一LDKだった為、姉はリビングに布団を敷き寝ていた。朝になれば朝昼晩と三食を作り、もちろん買い物や掃除洗濯までしてくれた。本当に申し訳ないと思ったが、おかげで療養に専念できた。
六時半に目を覚まし、朝食を食べてから体調が良ければ近所を散歩する。部屋に戻って疲れていれば横になるし、起きていられたら小説などを読んだ。
昼食を食べるとまた散歩、その後は寝るか本を読むかして、夜は前日までに録画した番組などを姉と一緒に見てから寝た。
龍太郎の症状は、よく言われる不眠とは真逆の過眠だった。どれだけ寝ても寝足りない。起きていると体がだるくまた頭痛や動悸が激しくなり、横になっていないと辛かったのだ。
よって食事を作ったり、家事をしたりする気力など全くなかった。だから姉がいてくれて本当に助かったと今でも思う。
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