第43話 エピローグ

 柳畑の秘書だった連城は、暴力団のフロント企業から賄賂を受け取っていた疑いでも取り調べを受けていたらしい。そうした日々が続く中、刑事達の追及から逃れられないと思ったのか、柳畑が階段から落ちたのはホテルの従業員の責任だと供述し始めたらしい。

 昼食を取りながらテレビを見ていた龍太郎達は、逮捕の速報に驚きの余り箸をおいてしばらく聞き入った。また詳細を知る為、食事を終えた朱音は即座に事務所へ連絡を取り確認を取っていた。龍太郎達もネットで続報が流れていないかを検索した。

 そこで得た情報によれば、柳畑の衣服などをDNA鑑定した際、彼のパンツのお尻部分から、踊り場の床についた跡と埃が発見されたらしい。また遺体の手だけでなく衣服からも、連城のDNAが検出されたようだ。

 当初それらの物証に関しては、遺体に駆け寄った際に連城が柳畑の手を握り体にも触れていたようだと、同じく駆け付けた大野による証言があった為見過ごされていたという。

 だがお尻の跡は落ちた先でなく、朱音と揉めていたとされる踊り場の中央部分で付いたものと鑑識が割り出したのだ。そうなると連城の供述通り非常階段に辿り着いた際、既に階段から落ちて血を流していたのなら、その前に尻餅をついていたことになる。その後に立ち上がってから階段を滑り落ちなければ、辻褄が合わないためだ。

 事務所を通じて流した朱音の動画の中で証言した状況が本当だとすれば、彼女が胸を突き放した際、柳畑は階段から落ちたのではなく尻餅をついたのではないかと推測できた。彼女が嘘をついていたのなら、一旦尻餅をついた後でさらに突き落としたことになる。ただそうなると、衣服には二度押した跡または触れた跡があるはずだ。

 けれど彼女のDNA痕は、一度胸を押したという供述通りのものしか検出されていなかったらしい。よって連城による証言と整合性の付かない点を刑事が事情聴取の際に突いた所、観念した彼は自分ではなく大野が突き落としたと言い出したのである。

 つまり動画配信によって、柳畑と朱音が二人きりになっていた時の様子をはっきりと説明したおかげで、警察は朱音に向けていた疑いの目を変え、真実が別にあるのではと気づかせたのだ。

 あの時リスクを犯し思い切って打った手は、無駄にならなかったと言える。さらにはマンションで新型コロナ感染騒ぎが起こり、さらには流産騒ぎもそれに続いたからだろう。朱音の捜索を一旦止め、鑑定等による物的証拠を見直す時間が生じた点も幸いしたらしい。

 元々悪人になり切れなかった連城は、罪の意識に耐えられなくなり自供せずにはいられなかったようだ。けれど賄賂については完全に否認し、洗いざらい柳畑の罪状を暴露し始めた。

 彼の説明によると柳畑の元に駆け付けた際、朱音に突き飛ばされ尻餅をついていたらしい。そこで彼の手を掴んで立ち上がらせようとしたところ、罵倒されたという。

「お前は本当に役立たずだな」

 以前からもしもの場合、賄賂は秘書のお前が勝手にやったと証言するよう命じられていたようだ。しかし連城はそれを拒否していた。そうしている内に贈賄側の企業が自白した為、柳畑は逮捕されてしまったのである。

 それからずっと役立たず呼ばわりされていた連城は、彼を殺したいほど憎んでいた。先代の申しつけもありこれまで我慢して支えてきたが、ここまで愚かな人だと思っておらず愛想を尽かしていたという。

 そこでカッとなり胸をついたりして掴み合いをしていた時、大野が駆け付けたそうだ。喧嘩を止めさせようとした彼は、連城の体を掴んで二人を引き離そうとした。けれどそのせいでバランスを崩した彼は、咄嗟に柳畑の手を引っ張る形になったらしい。

 その為に態勢を崩した柳畑は階段から足を滑らせ落ち、頭を強く打って大量の血を流し意識を失ったというのだ。

 そこで駆け付けた時は既に階段から落ちていたと、二人は慌てて証言内容をすり合わせたのである。連城は元々柳畑を憎んでいた。大野もまた世間から非難を浴びていた悪人など死んで当然だと考えていた為、二人の思惑は直ぐに一致したという。

 警察は改めて大野を任意同行して確認したところ、連城の言い分に間違いないと自白した。彼は決して殺すつもりなどなく、あくまで事故だったと泣き崩れたそうだ。また彼が傘を外した為に、防犯カメラは事故後の状況をしっかり捉えていた。

 そこで映っていた画面を拡大し、柳畑の頭から流れ出ていた血やその広がり具合を詳細に分析したという。すると朱音が非常階段から去った時間より、もっと後に落ちた可能性が高いとの結果が出たのだ。

 しかし計画的な殺人で無く事故だと認めた警察は、大野だけでなく連城も過失致死罪で逮捕送検したのである。ただし連城はフロント企業によって渡された収賄事件については無関係とされ、柳畑の単独行動だったと結論付けられた。しかしその件は被疑者死亡のまま、公訴は後に棄却された。

 連城達の供述と逮捕により、当然朱音の無罪は明らかとなった。龍太郎達はもちろん彼女の事務所も安堵した。

 だが問題はまだ残っている。それはどうやってマスコミの前に彼女が姿を出すか、だ。また疑惑は晴れたにせよ、彼女は事件直前の状況を知る唯一の証人である事実には変わらない。よって警察は彼女からも話を聞きたいと、事務所に申し出を行っていた。

 その為社長や野垣と打ち合わせを行い、これまで隠していた事情を警察に伝えた結果、聴取は龍太郎達の部屋で行われることとなった。当然彼女が無実だった点や匿っていた事情も考慮された為、龍太郎達は罪に問われずに済んだ。

 その代わり、彼女と同じく隠れていた期間における行動について事情聴取をされたのである。けれども柳畑が無理やり朱音を非常階段に連れて行った理由については謎のままで終わり、真実を知るのは龍太郎達三人だけとなった。

 ちなみに担当はPCR検査で陰性が出たが自主隔離させられ、その期間が明けた間宮達だった。もちろん彼らに嘘をついていた点や、別のパソコンやスマホを提出した件についてはしっかりお叱りを受けた。けれども香織が流産した経緯もあり、その程度で済んだ。

 警察への捜査協力を終えれば、残るはマスコミ対応である。どう説明するか悩んだが、今後の事を考慮して記者会見を開くと決まった。とうとう彼女は妊娠していると公表する決断をしたのだ。

 その理由の一つは、警察がマークし隠れていると噂されていたマンションに産婦人科医が訪問診察に訪れた件を、一部のマスコミに嗅ぎつけられたと分かったからだった。

 もしこのまま放置しておくと、朱音は妊娠しているのではないかとの憶測記事が遅かれ早かれ出ると予想された。またそれを否定すれば、では誰がマンション内で妊娠をしているのかと騒ぎ立てられるに違いない。

 そうなれば、まず三十代の河合夫妻が疑われるだろう。彼らがそれを否定すれば、次に目を付けられるのは香織達だ。そうなれば朱音を匿った件について追及されるだけでなく、流産した件も明らかになり、好奇の目に晒される恐れがあった。

 そうした事態は絶対に避けなければならず、これ以上迷惑をかけられないと朱音は先手を打とうと決心したようだ。つまりきっかけは龍太郎達夫婦を守る為だった。

 彼女は無事出産出来たあかつきには、当初から会見を開く予定ではいた。それが早まっただけだと考え直したらしい。その頃既に安定期に入っていた点も後押ししたと思われる。

 また今後精神的に安定した環境下で暮らす為にも、ここで発表した方がストレスは軽減されると判断したのかもしれない。龍太郎や特に香織の顔を見るのは辛かったのだろう。

 その証拠に、連城が逮捕された為に行われた取調べが終わってから、彼女は直ぐに龍太郎達の部屋から溝口の部屋へと移り住んでいた。無事出産するまでは赤坂達の診察を受ける必要があった為に、ここで居続ける状況は変わらないからそう決めたのだろう。

 そこで急遽事務所の社長や野垣が名古屋にやってきて、市内のホテルを押さえ会見を行った。当然のようにマスコミは大挙して押し寄せ、大騒ぎとなった。柳畑の事件発生から一ヶ月以上姿を消していた朱音が、とうとう現れると知ったから尚更だ。

 多くのテレビ局もカメラを構えて陣取り、お昼の二時半からと各局がワイドショーなど放送している時間帯だった為、その様子は全国中継で生放送された。その時間は普段テレビを点けていない龍太郎達も、この時ばかりは二人で齧りつくように彼女達を見守った。

 冒頭は社長の挨拶により、関係各社並びにファンや世間の皆様をお騒がせし、ご迷惑とご心配をおかけした点をお詫びしていた。朱音も頭を下げていたが、その後は警察から許された範囲内でと断ってから、自ら経緯を説明していた。

 シングルマザーになる決意をし、高齢で妊娠した為に自らの体とお腹の子の命を守り、安静に過ごすことを優先させようと熟慮した結果、止む無く警察への出頭を控えたと述べていた。その際、涙ながらに語ったのだ。

「匿って下さった方は、あくまで私の体を気遣ってくれただけです。でもそのせいで一人の未来ある命が失われました。ですからその人達の為にも、私は絶対にお腹の子を無事出産しなければなりません。ですからお願いです。しばらくの間、そっとしておいてください。また匿って下さった方への取材もお控え下さるようお願い申し上げます」

 もちろん小学生の頃、柳畑に催眠をかけた件やお腹の子の父親についても完全に伏せていた。記者達からは多くの疑問や質問を投げかけられたが、龍太郎達の件も含めた三点については頑なに口を閉ざした。

 よってかなり厳しい追及を受けていたけれど、子供の命を守る為だったと最後まで主張し会見を終えたのである。

 当然世間では、お腹の子の父親は誰なのかに最も関心が寄せられ、多くの有名俳優人達の名が挙げられた。中には直接質問を受けた人達もいたようだ。それでも朱音は先方に告げていなかったからだろう。

 彼女の意図を汲んだらしく、誰も名乗り出る者はいなかった。その為業界内でもかなり長い間、その話題で持ちきりだったという。

 また彼女が会見で触れたおかげで、匿った龍太郎達は追い回されずに済んだ。明言を避けながらも、匿っていたのは妊娠していた夫婦で更に流産したと匂わせた為と思われる。

 それでもマンション内の住民達には当然勘付かれていた。しかし普段から極力接点を断っていたこれまでの経緯やコロナ感染騒ぎも影響したのだろう。また香織の過去の経緯を知る人達も多くいて、声をかけることもはばかられたのか皆そっとしておいてくれた。 

 その上落ち着いた頃を狙い、緑里朱音の逃亡劇の真相を探ろうと取材を目論むマスコミが近づいてきた際は、彼らが一斉に守ってくれたのだ。

 会見を終えた朱音はその足で溝口の部屋に戻り、引き続き赤坂の訪問診断を受けつつ出産の準備に入った。食事やその他の世話がある為、当初の予定通り叔母の手を借りるのが最も安心できると判断されたからだ。

 ちなみにルームランナーは溝口の部屋に運ばれ、朱音の運動不足解消に役立てられていた。また時折香織達も家を訪ね、しばらくは使用させて貰った。そうすることで話し相手となり、お互いのストレスや悩みを解消させていたのである。

 やがて朱音は休暇を延長し、無事に元気な男の子を出産した。それからしばらくクリニックに入院した後、溝口を伴って東京へと戻っていった。子供の世話をお願いする為に、しばらく同居してくれるよう依頼したようだ。その際香織は別れを惜しみ泣いていた。

 そうして時は過ぎ、外の世界では九割近く二回のワクチン接種を打ち終わった人達による三回目の接種も進んでいた。

 そのおかげなのか分からないけれど、次々と変異株が出現しながらもコロナ感染者は少なくなり、政府も収束しつつあると発表。さらに飲み薬など新たな治療薬も開発が進んだ為、経済もコロナ禍以前の水準を上回るほど活性化した。

 龍太郎達も比較的安心して外出できるようになったと思った頃には、涙も枯れてしまったらしい。また泣く気力さえ失った。

 その反動もあってこのままでは体に良くないと、二人はようやく気付けたからだろう。体を動かそうと、まずは以前と同様に週二回の買い物から始めたのである。

 さらには三年近く控えてきた外食や、散歩がてらに公園などへ出かける行動も再開し、買い出し以外でも月一回から三回は外出するようになった。家にいる時は引き続き家事を分担しつつ、その他の自由な時間はそれぞれやりたいことをするようになった。

 妊娠中や流産した後は途絶えがちだった読書や、手芸をする時間も香織には必要だ。しかし龍太郎は、復職に向けての勉強を再開する気にはなかなかなれなかった。読書は始めたものの、将来に向けてのビジョンに疑問を持ったからである。

 香織が妊娠している間、今後の経済的な不安はともかく出産後における生活について、龍太郎は様々な想像を働かせていた。

 間違いなく子育てに関しては互いに苦労するはずだ。目の前で必死に生きているぞとアピールするだろう赤ん坊の世話が、何よりも最優先されるに違いない。夜泣きも経験し、香織共々寝不足になる時だってあると推測できた。

 そうなると両親が家に居られるという利点は大きい。昼間の隙間時間を使って互いに声をかけ合い、昼寝をして何とかしのげばやっていける。子供は元気なはずだ。精神的なストレスだけでなく、相手をしていると肉体的な疲労も蓄積するだろう。  

 互いに四十半ばを過ぎているのだからそれはやむを得ない。けれども疲れたら無理をせず休むという原則は、子供が生まれる前から実践していた療養生活と何ら変わらないのではないか、と考えられるようになった。

 これまでは二人共が同じタイミングで体調を崩したり、眠くなったりするケースは全くなかった。けれども育児をしていれば寝不足が重なり、体調を崩す頻度も多くなるかもしれない。といっても何が起こるか分からないので、子供からは目を離せないだろう。

 そんな中で龍太郎は、果たして体調を安定させられるのだろうか。それよりたとえ外で就職できるほど回復したとしても、それでいいのかと疑問を持った。何故なら今後の生活を考えた時、香織だけに育児を任せてはいけないと思ったからだ。

 香織は手芸をしていれば、引き続き家の中に籠り机に向かい続ける日々を過ごすに違いない。そうなった場合にもし龍太郎が外で働いていれば、彼女が家事や子育てだけでなく内職まで抱えてしまう。

 つまりこれまで何事も分担して乗り越えてきた生活スタイルが、破綻してしまうと気付いたのだ。ならば龍太郎も彼女と同様、家にいながらお金を稼ぐ方法を目指した方が良いのではないかと考えたのである。

 結果的には香織が流産し、様々な心配も杞憂には終わった。子供はいない。けれど以前抱いていたように、今の生活を崩していいものかという疑問は拭い去れなかったのだ。

 あの時頭の中は、彼女同様本が好きで沢山の小説を読み漁り、また物語の世界に没頭することで救われてきた自らの経験を活かせないかと思い描いていた。

 よって大きな哀しみを乗り越えた今だからこそ。小説を書いてみようかと決意したのだ。多読家の一部ではよくあるそうだが、自分で物語をつづってみたい病に罹ったのである。

 そこで試しに一作書き上げ、ある新人賞に投稿してみた。すると応募総数の上位十五パーセント以内に入り一次通過し、講評まで貰えた。その為初めて書き上げそこまで到達できたなら、望みはあるかもしれない。そう自惚うぬぼれ、勘違いしてしまったのだ。

 それだけではない。龍太郎がそこまでのレベルなら自分はどこまでだろう、と香織も執筆に興味を持ち始めた。よって手芸を辞めて小説を書き、完成すれば新人賞に応募すると言い出し、二回目の投稿で二次通過したのだ。

 その際、龍太郎は彼女の作品を事前に読んで感想を述べ、改善点などを指摘していた。そうしてある程度の結果を出せた為に、自信が持てたのだろう。こうして二人は、共に作家を目指すようになったのだ。

 時には片方だけが一次通過して気まずい思いをした。二人共早々に落選して気落ちしたこともある。それでも小説をつむぐ喜びに目覚め、互いに協力し合う楽しさを覚えた。完成したものに目を通してアドバイスし合うだけでなく、共作を試みたりもした。

 受験勉強や資格取得のように、頑張れば結果が出るまたはゴールまでの道筋がそれなりに見えて来る類の目標ではない。けれど将来的なビジョンを見据え、目標に向かい日々送る生活はとても安定していたのだ。

 例に挙げると朝起きて交互に決めた家事を終えれば、二人共パソコンに向かって執筆を開始する。もちろん執筆の進み具合や応募予定の締め切り、またはその時の体調などにより、家事の分担も融通が利くように心がけた。

 そうすることで、この先どちらまたは両方が作家としてデビューできれば収入が見込め、削る貯蓄額も少なくて済む。上手くいけば更なる貯蓄ができるかもしれない、と目論んだのである。

 香織が先にデビューしたなら、龍太郎は主夫兼アドバイザー兼事務員兼マネージャーになっていいとの覚悟まで持った。

 当然時間が許す限り執筆は続け、彼女の同業になる為の努力は続けたいと思っている。その一方で、男が稼いで養うべきとのくだらないプライドは早々に捨て去った。

 現時点でも我が家の家計は、既に香織がもたらす家賃収入で助けられている。もちろん龍太郎が所有する家に彼女が住んでいるからこそできるのだが、これまでも彼女の助けが無ければまともな生活は出来なかったのだ。

 そう思えば男の俺が大黒柱に、など今更な考えだと気付いた為である。龍太郎が作家を目指すと決め、話し合った際に彼女は賛成してくれた。

「良いと思う。龍太郎が自分の意志で決めたのなら、反対なんてしない。私は外に出て働くことに疲れてしまった経緯もあるから、家の中で仕事が出来ればと思って手芸を始めたの。少しでも生活の足しになればと思ってね。だからこれからも協力してやっていこう」

 その際、長時間の執筆に耐えられるようにと、彼女は自分が使っている椅子と同じものを購入し、プレゼントしてくれたのである。但し龍太郎が使う机は、引き続きダイニングテーブルのままだった。

 この時、結婚しようかと彼女に告げた頃を思い出した。生活費は龍太郎にばかり頼る気はない、と彼女は言った。さらにもし一緒に居ることで私が邪魔になるなら、また不安にしてしまって体調の回復を遅らせる原因になるようなら別れる、という約束もさせられた。

 一人だけでなら、お互い暮らせるだけの貯金は辛うじてある。でも二人でいる方が、より前に進めると思うから結婚しよう。そう互いに納得して決心したのだ。

 まさかあの時は、二人に子供が出来るなんて想像もしていなかった。妊娠したと聞かされ、正直混乱もした。流産した際などはこれ以上ないほど心をかき乱された。

 けれど結果的に二人の絆はより深まったと思う。妊娠騒動により互いの大切さを再認識できたのだ。贅沢さえしなければ、またお互いこれ以上体調を悪化させなければ老後の生活費はなんとか用意できる。

 高収入を得られても、決してそれが幸せだとは限らないと身を持って経験してきた。お金はある程度必要だけれど、人間らしい暮らしをする為には精神的な充実感が不可欠なのだ。それが何かを求める事が自分探しなのではないか、と今では思うようになった。

 もしいつまで経っても作家デビューできずに貯金を使い果たし住む場所を失ったなら、生活保護を受けてでも生きていくことは出来る。でもできるだけそうならない為に、努力だけはしようと二人で決めたのだ。

 そうして二人は書き続けていた。共に頭を抱えながらも助言し合い苦労して生み出した作品は、まるで本当の子供のように思えたほどである。

 そうして五年の月日が流れ、とても待ち遠しく期待溢れる日がやってきた。

 一つは朱音が久しぶりに休みを取り、康太こうたと名付けられた息子と一緒に溝口の家へ遊びに来ることだ。出産して二年程経った頃、溝口は名古屋へと戻ってきた。しかしその後、香織は何度か康太を連れてこちらへ遊びに来ていたのである。

 その度に香織達も彼女と康太に会う為、顔を出していた。よって溝口さんは名古屋のおばばと呼ばれ、龍太郎達は名古屋のおじさん、おばさんと呼ばれるまでの関係になった程である。

 そうした影響もあってか、子供がいる隣の河合夫妻とも交流を持つようになっていた。これまで単なる借家人しゃくやにんでしかなかった関係が少しずつ変わり、他の住民との距離も淡い繋がりではあったけれど、以前より近くなった気がする。

 環境と心理的変化がそうさせたのだろう。また龍太郎もマンションの理事会には、香織と交代で出席するようになった。

 朱音は子供の面倒を東京で雇ったベビーシッターや事務所のスタッフに看て貰いながら、一昨年から仕事復帰していた。

 さらに出演した映画作品が海外の賞を獲り、彼女自身も最優秀助演俳優賞を受賞したのだ。そうした忙しい日々を送り、最近になってようやく休暇が取れたらしい。

 そんな彼女や康太との再会を心待ちにしながら、二人は別の電話を待っていた。それは二人が応募した新人賞の、最終選考の報告である。

 一カ月ほど前、最終候補作の五作品の中に、龍太郎と香織が投稿した小説がそれぞれ選ばれたと連絡を受けていた。その結果が今日の選考会で決まる。つまり四十パーセントの確率で、どちらかがデビューできる権利を得られるのだ。

 事前の話では、夕方の四時頃に電話で結果を知らせると告げられていた。

 予定時間を十分ほど過ぎた時、二人のスマホがほぼ同時に鳴った。お互い目配せをし、電話に出る。結果を耳にした瞬間、二人は見つめ合い抱き合った。その眼からは、以前流したものと全く違った涙がこぼれ落ちていた。  (了)

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