第42話 決意(龍太郎視点)~9

 そう言われて背筋が伸びた。そうだ。男の俺に出来る事など限られている。ようやく自分の役割を自覚できた為、通話し終わった彼女からスマホを受け取った際に言った。

「財布と診察券と保険証は持った。タクシーはもうそろそろ来るから、下で待って居よう。準備はできたか」

 黙って頷いた為、今度は朱音に視線を向けて告げた。

「私達が戻ってくるまで、朱音さんはカーテンなども開けずに、そのままここでいてください。長引くようなら申し訳ないですけど、朝食などはパンを焼くか冷蔵庫にあるものを適当に調理して頂けますか。何かあれば香織のスマホにメールで連絡します。どちらにしても私が一度は戻りますから、それまで待っていてください」

「分かりました。私の事は心配しないで、香織さんだけを見ていてあげて下さい」

 それに対し強く頷き、香織の体を支えながら部屋を出て玄関の扉を開け、外から鍵をかけた。階段近くまで来てから、遠慮する彼女を強引にお姫様抱っこして下へ降りた。その方が体に負担がかからないだろうし早いからだ。

 一階に着きマンションの外に出て道路を見る。まだタクシーは来ていないようだ。空はだいぶ明るくなっていたが、さすがに肌寒く感じる。今年は十月に入っても例年より温かく、最低気温も二十度を切るか切らないかの日々が続いていた。それでも風が吹くとひんやりする。

「寒くないか」

 彼女は首を振った。お腹をずっと押さえている様子から、それどころではないのだろう。額には汗を掻いていた。だが龍太郎に出来る事はほとんどない。そこで背中をさすりながら言った。

「もう少しだ。立っているのが辛いのなら、ガードレールに腰かけるか」

「大丈夫。ごめんね」

 かすれた声で頭を下げる彼女に龍太郎は首を振った。

「謝らなくていい。もう少しの我慢だ。病院へ着けば、先生が何とかしてくれるさ」

 そう言っている所にタクシーがやって来た。思ったより早かった為に焦る気持ちが落ち着いた。急いで後部座席に彼女と一緒に乗り込み、既に電話で伝えていた行き先を確認の為に告げる。運転手は頷きゆっくりと発進したが、途中はスピードを出してくれた。

 そもそも病院は近くだった為にすぐ着いた。しかも有り難いことに、玄関先でストレッチャーが用意されていた。病院側が準備して待っていてくれたのだろう。これなら安心だ。必ず何とかしてくれる。

 そう思いながら香織を看護師達に任せ、タクシー代金を払ってから病院内へと駆け込んだ。彼女は直ぐに診察室へと連れて行かれ、龍太郎は廊下で待機するように言われる。そこで両手を握りしめ、ずっと二人の無事を祈っていた。

 しかしその願いは叶わなかった。母体は幸い無事だったけれど、お腹の子は流産してしまったのである。

 世間では六十五歳以上の高齢者のワクチン接種が一段落し、名古屋でも九割以上が打ち終わっていた。よってその後は若い世代の接種が日々進み、龍太郎達も済ませていた。

 一部の誤情報の中で、ワクチン接種は流産のリスクがあるというデマが広まっていた点は二人共承知していた。それに元々流産のリスクは十から十五%あると言われており、高齢出産になる香織の場合はもっと高くなると心の準備はしていたのだ。

 それでもいざ実際にそうなってしまった時、やはり様々な思いが交差し苦しんだ。ワクチンを打ってしまったからだろうか。それともマンションでの新型コロナ感染騒ぎの影響だろうか。いや元々出産なんて無理だったのかもしれない、といった考えにも捉われた。

 けれど不思議と朱音を匿ったせいだとは思わなかった。香織の流産を知った彼女は、当初相当ショックを受け何度も自分を責めていた。

「私がこの部屋に匿ってくれと言ったから。本当にごめんなさい。いくら頭を下げても許されないと分かっているけど、香織さんに会わす顔が無い」

 病院に駆け込んだその日の内に結果を知らされ、彼女は大事を取って一日入院することとなった。その為一旦、着替えなどを取りに行くためにと部屋へ戻った龍太郎は、嘆き悲しむ彼女を宥めた。

「それは関係ありません。朱音さんと出会えたから、彼女は妊娠した件を私に伝える勇気を得られたのだと思います。またもしあなたがいなければ、私達は子供を産むという選択をせず、中絶していたかもしれません。ほんの少しの間でしたが、私達は夢を見ることが出来ました。朱音さんには感謝しかありません」

 病院から戻った香織もまた、落ち込む彼女に同じ言葉をかけていた。それは二人にとって嘘偽りのない気持ちであり、心からの思いだったからだ。

 妊娠十二週未満での死産の場合、火葬や死産届けを出す必要は無い。十二週以上だとそれらの手続きをしなければならず、さらに二十二週以上では死亡届と出産届を役所に提出するそうだ。その場合は命名までした上で、戸籍にも記載されるという。

 法的に必要な手続きとはいえそこまですれば、相当心情的なダメージを強いられたに違いない。けれど警察にはこちらから電話で流産したと連絡し、少なくとも一週間以上はふくす為に訪問を避けて欲しいと告げておいた。

 電話に出た刑事は余り事情を把握しておらず反応が鈍かったけれど、恐らく自宅待機中の間宮達には伝えられたのだろう。おかげで他のパソコンやスマホを所持しているかどうかなどを確認する為の訪問は、その後されずに済んだ。さすがに気まずく思ったか、騒ぎを起こした責任を感じてくれたのかもしれない。

 それでも子供を失った悲しみは別だ。流産直後は気丈に振舞おうとしていた二人だが、やはり我慢できず朱音のいない寝室に移動しては涙を流していた。親友が自殺した時や両親達が亡くなった時よりもずっと、喪失感は大きかったからだろう。

 そうなるとせきを切ったように悲しみの感情が流れ出し、長い間止まらなかった。泣いてもしょうがないとは思っていたけれど、とにかく辛い思いは溜めずに吐き出してしまおうと互いに話し合ったからだ。

 買い物にも行く気が起こらず全てネット注文で済ませ、一日のほとんどの時間を寝室で過ごして抱き合い背中をさすりながら、四六時中泣いて暮らしていたのである。

 それでも生きている人間はお腹が空くものだ。また朱音の食事も作らなければならない。よって時間になるとダイニングへ移動し、これまで通り交代で台所に立ち三人で食卓を囲んだ。

 その間の会話はこれまで通りに交わしていたつもりだったが、やはりどこかぎくしゃくしていた。とはいっても朱音の体を気遣わなくてはいけない。よって出来るだけ普通に振舞おうと努力だけはしていた。

 そうして柳畑の死から十日が経過する間も、警察によるマンションの監視は続いていたようだ。併せてマスコミも以前ほどの数では無いけれど、遠巻きに待機していたと思われる。窓から覗けば、それらしき車があちこちに停車している様子が見られたから分かった。

 しかしそんな生活が突然終わりを告げた。木曜日のお昼のニュースを見ている時、ホテル従業員の大野が、柳畑殺害の容疑で逮捕されたとの速報が流れたからである。

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