第41話 決意(龍太郎視点)~8

 気付けば外からの騒ぎ声は聞こえなくなっていた。こっそり窓から覗くと、マンションの玄関先に集まっていた集団は散らばっていた。警察もしくはマンションの管理会社、または周辺の住民からクレームを受けたのかもしれない。それでも周辺には留まったままだ。 

 やはり朱音本人の居所を掴むまでは、マスコミ達も取材を続けざるを得ないのだろう。それに警察がこのマンションを見張っている間は、何か動きがあるかもしれないと期待するのは当然だった。

 とにかく今しばらくの間は、一段落したと考えていいだろう。その為、朱音はもう一度横になって休むことにしたようだ。香織と龍太郎はソファに座り、本の続きを読み始めた。

 だがその後、マンションでは別の騒ぎが勃発したのである。なんと一〇一号室の住民である脇坂わきさか荘吉そうきちがこの日の朝方に発熱していたらしい。よって病院に駆け込み検査したところ、翌日の結果で新型コロナに感染していると判明したのだ。

 七十五歳の彼は、既に二回のワクチン接種を終えていた。だからといって感染は百%防げるものではない。彼は妻の長子ながこと共に昼のカラオケが趣味だったらしく、九月末で緊急事態宣言が開けてすぐ、近くの馴染みの店に何度も通っていたようだ。

 しかし感染元がその店だったかは定かでないという。というのも別の要因が絡んでいたからだ。というのも彼らは溝口の部屋の下の階の住民で、かつてどちらかの出した騒音がきっかけとなり、それ以降の関係は余りよくなかったという。

 昔の出来事なので、今となってはどういう経緯でそうなったのか誰も詳しく覚えていない程らしい。それでも長年の不満の蓄積が、今回のマスコミによる騒ぎで再燃したようだ。

 溝口の姪の朱音が起こした事件が騒動の発端だと知った脇坂夫妻は、ここぞとばかりに彼女を非難し始めた。その矛先は当人だけでなく、マンションを取り囲む取材陣や訪問に来た刑事達にも向けられたという。

 理事長の柴田夫妻や同じ階の住民を巻き込み、何度もしつこくインターホンを鳴らされ迷惑していると、直接激しく怒鳴り散らすほどの抗議に発展していたようだ。それが火曜日に起きた最初の騒ぎの時らしい。

 マスコミ側の一部が大人しく引き下がらず反論した為、その間三十分以上のやり取りの末、一度はあわや乱闘騒ぎ寸前まで揉めたという。だから比較的早く、インターホン攻撃が止んだのだと後に知った。

 そこまで不特定多数の人達と接した彼らだったので、記者達の誰かがウイルスを持っていた為に感染した可能性も浮上した。よって長子はもちろん、彼と接触した集団が濃厚接触者に該当し、多くがPCR検査を受けて健康観察と自宅待機を余儀なくされたのである。その中には間宮達刑事や、愛知県警の一部の警察官までも含まれていたという。

 その上厄介な事に記者の中でワクチン接種反対論者がいて、その人物に陽性反応が出た為、問題はさらに拡大した。そういった人達が感染を拡大させたのだろうと世間から批難されたからだ。

 反ワクチン派を攻撃していた人達などにより、このご時世におけるマスコミの報道や警察の認識の甘さに対して、激しいバッシングが繰り広げられた。コロナ禍における人々の分断がここでも表面化したのである。

 SNSなどでは長い間、繰り広げられてきたことだ。検査を拡大するか否か、マスクをするかしないか、距離をどの程度取ればいいのかといったものから、やがてワクチンを打つ必要があるかどうか、ワクチンの種類はどれがいいか、どの治療薬は認められるか等にまで広がった。 

 他にも自宅療養のやり方や隔離の仕方が適切かどうか、マスクはどれがいいかなどなど、何百通りもの意見が対立して議論から批判、誹謗中傷、罵詈雑言へと発展し、挙句の果てには個人の思想や支持政党による対立、人種差別にまで及んだ。

 これほど人の意見は様々で、また状況によって変化し時には醜い正体が明らかになった現象、時代はなかったかもしれない。

 そうした影響もあり、マンションの管理組合や近所の抗議が加わって、マスコミは完全に近づけなくなった。その上マンション周辺は消毒され、中での行き来も最低限に抑えるようにとの通達が各部屋に回ってくる事態となったのだ。

 下手に騒いだ結果、このような事態が起こったと誰もが思ったからだろう。それ以降マンション内やその周辺は、これまでに無いほど静かになった。

 おかげで明日にでも刑事が再び来ると危惧していた龍太郎達だったが、取りあえず目先の危機からは逃れられた。またルームランナーも無事配達され、朱音や香織は外に出なくても運動が出来るようになったのだ。

 ちなみパソコンとスマホは無事戻ってきた。警察からは問題ありませんでした、ご協力ありがとうございます、とのメモ書きと消毒済みの文言が添えられていた。間宮達が濃厚接触者になったこともあり、こちらの指示通り宅配ボックスに入れて返却されたのである。

 だが彼らも馬鹿ではない。そのままでは引き下がらなかった。何故ならメモには、他にパソコンやスマホをお持ちであれば、そちらも確認させて下さい。後日連絡させて頂きますので宜しくお願い致します、との記載もあったからだ。

 柳畑の件は解決しておらず、朱音も姿を消したままの状態には変わりない。その為にテレビやネット上では引き続き騒がれていた。よってまだ油断できず、いつ別の刑事が訪ねてくるだろうと警戒していたのである。

 金曜日に予定していた買い物をする為の外出を諦め、ネットで取り寄せた。そんな緊張感の影響か、または季節外れの真夏日に近い最高気温が連日続き寝苦しい夜も増えたからかもしれない。最も恐れていた事態が起こった。香織の体調が急変したのだ。

 カーテン越しに光が差し込み始めた土曜日の朝方、目覚まし時計が鳴る前にふと龍太郎が目を覚ました時、横に寝ていた香織が苦しんでいる様子に気が付いた。

「どうした、大丈夫か」

 背を向けた状態の彼女がお腹を押さえていると分かり、血の気が引いた。飛び起きて背中をさすりながらもう一度尋ねた。

「痛いのか。病院へ行った方がいいんじゃないか」

 苦痛で顔を歪めた彼女の首筋から汗が滲み出ていた。どうやら声を出すのも難しいのか、小さく唸りながら頷いた。

「分かった。今すぐタクシーを呼ぶから」

 携帯は滅多にかかってこないこともあり、普段から寝ている間だけ留守番電話にセットしてリビングに置いてある。下手におかしな電話で起こされたくないからだ。その為慌てて取りに行き、登録していた番号を呼び出そうとした。

 以前から何かあった場合は救急車を呼ぶのではなく、基本的にはタクシー会社へ電話して来て貰うようにと主治医の赤坂から言われていたからだ。時間を見るとまだ五時だった。特にこういう時間にサイレンを鳴らされては近所迷惑になる。

 けれども指が震え、なかなか操作ができない。焦れば焦る程、違う画面に切り替わってしまう。苛つきながら思わず舌打ちをしてしまった。

 最初からやり直し、ようやく電話がかけられた。直ぐに出た為、怒鳴るように言った。

「急いで来てください。住所は、」

 隣室で朱音が寝ていることすら忘れていた。余りの大声に起きてしまったのだろう。引き戸を開けて顔を出していたらしい。

 なんとか必要事項を伝え、後は待つだけだと電話を切った途端に声をかけられた。

「香織さんがどうかしたんですか」

 そこで初めて彼女の存在に気付いて驚き、謝りながらも説明した。

「す、すみません。起こしてしまいましたね。お、お腹が痛いと苦しんでいたので」

「それは大変よ。病院へ行く準備をしないと。着替えも必要でしょう。龍太郎さんはスマホを持って、診察券や保険証と財布を用意して下さい。香織さんの方は私がします」

 そう言って立ち上がった彼女は、香織がいる寝室へと駆け込んだ。何をすべきか指示されたおかげで、パニックを起こしていた頭が少し落ち着いた。そこで机から自分の財布を取り出し、残りは全て寝室にあるので龍太郎も駆け戻った。

 扉を開けると、朱音が香織に話しかけながら服を着せていた。それを横目に彼女の診察券と保険証を取り出して財布に仕舞い、クローゼットを開けて龍太郎も自分の着替えを直ぐに済ませた。

 電話を切ってからここまで五分も経っていない。タクシーは二十分前後で配車できると言っていた。それなら香織の準備が整い次第、階下に降りて待っていればいいだろう。その前に病院へ電話を入れなければと気付き、連絡を入れる。

 クリニックでは二十四時間訪問対応をしてくれるが、こうした緊急対応は設備が整った院内でなければ十分な処置が出来ないと思ったからだ。

 ここでもすぐに相手が出た為、患者名を名乗り状況を説明する。すぐに来てくださいと言われ少しだけ心が安らいだ。また痛みの状態を聞かれた為、香織にそのまま尋ねたところ、直接話すとのゼスチャーをしたのでスマホを渡した。

 息も絶え絶えの状態で話す彼女を狼狽えながら見ていた龍太郎に、朱音がそばまで寄ってきて背中を軽く叩き励まされた。

「あなたがオロオロしていたら駄目よ。彼女が一番不安で苦しいんだから、堂々として支えてあげないと。全ては病院の先生に任せるしかないんだから」

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