第38話 決意(香織視点)~5

 あの頃は彼と似たうつ状態に陥り、自律神経も狂い出し、とても不安定な精神状態だった。それでも彼に慰められ、また同じように苦しむ彼の面倒を看ることで心身のバランスが取れていたのだと思う。役に立っていると思え、己の存在を否定せずに済んだからだ。

 そうしている間に、かつて抱きつつも成就しなかった恋心を思い出した。当時の思いを口にする内に、再び彼に好意を持ち始めたのだ。

 それでも一度結婚を失敗し、子供を産めなかった自分に自信が持てず、関係を深めようとは思えなかった。前に進むことに臆病だったのだろう。

 しかし彼は言ってくれた。自分も失敗した身であり、今はこんな状況で子供を望んだりはできない。それでも一緒に支え合えるのではないか。その言葉に励まされ、一緒に暮らす決意が持てたのだ。

 よって二人の間に子供を持つというのはお互い想定しておらず、それどころか不必要なものだとの認識をしていたはずだった。それでも初めて妊娠をしたと気付いた時、香織が真っ先に感じたのは幸せだったのだ。

 もちろんその後は現実に引き戻され、どうしようと悩んだのも事実だ。朱音の診察が不可欠だと分かり、それを利用し一度は妊娠したかもしれないと彼に打ち明けられた。だがいざおめでただと診断を告げられた際、再び動揺してしまったのである。

 そこで咄嗟に思い付いたのが彼を騙す方法だった。それでまずは朱音の件を先生に告白し、頭を下げ了解して貰った様子から信頼できると思い、妊娠していないと嘘をつき催眠をかけるという小芝居をお願いした。つまりどういう態度を取るのかを試したのだ。

 けれど彼は残念だと口にした。その上健診出来て良かったとまで言い、香織の体を気遣ってくれたのである。その言動を目にして香織は罪悪感に苛まれた。だから早く白状しようとはしたけれど、赤坂が来るまで言えなかったのだ。

 しかし朱音が診察を受けた後に先生達も含め説得され、観念して彼に告げた。かなり怒られると覚悟はしていた。けれど思っていた程ではなく、結果的にはすんなりと受け入れてくれたのである。それどころか、前向きに捉えてくれた彼の言葉に心が満たされたのだ。 

 そうなったのは全て朱音のおかげだと感じた。彼女が来てから彼は明らかに変わったからだ。体調が最悪だった時期を過ぎたとはいえ、これまでは良く言えば穏やか、悪く言えば生気が薄かった。

 しかし今では朱音やお腹の子だけでなく、香織と二人の子を守らなければならないという責任感を持ったからか、活き活きとしている。その姿は自信があふれていたかつての学生時代を彷彿ほうふつさせた。余りにも元気すぎて躁状態にも見えるので、反動が来ないかハラハラする程だ。

 その為彼女は二人にとり、神様が遣わせた幸福の女神であり恩人だと今は本気で思っている。だから大切にしなければならないと心に刻み込んでいた。

 今日の果物のリンゴを、皮ごと輪切りにして小皿に乗せる。蕎麦が茹で上がったのでどんぶりに入れた。ネギと揚げを刻んで煮ていた出汁を注ぐ。刻み葱を乗せて完成だ。

 顔を上げると、思ったより早くビデオ通話は終わっていた。今は事務所から送られた、配信動画で話す原稿に目を通しているようだ。龍太郎が横から覗き込み、何か相談に乗っている。

 どんぶりと小皿をカウンターに乗せてから、二人に声をかけた。

「出来たよ」

 彼らが振り向き立ち上がった。龍太郎が消していたテレビの電源を入れ、ニュース番組にチャンネルを合わす。どうやら食事は出来そうだ。テーブルにセットして席につく。 

三人が揃ったところで手を合わせた。

「頂きます」

 蕎麦を箸ですくい口に運ぶ。二口程食べた所で香織は尋ねた。

「動画で話す原稿を見ていたんですか」

「そう。まだ全部読めていないけど、いくつか気になる点があって事務所と相談しながら訂正していいかを確認しないと」

「俺がざっと目を通したところだと大きな問題はなさそうでしたけど、細かい点は少し変えた方が良いかもしれませんね。あともう少し姿を隠し事務所と連絡を取らなかった理由について、言い方を考えたほうが良いかな」

「私もそう思います。でもこれで世間の人は納得してくれるでしょうか」

 箸を置いた朱音が俯きながら呟くように言うと、龍太郎は首を大きく振った。

「何を言ったとしても、全員が納得することは有り得ませんよ。マスコミも含め、好き勝手言う奴らは必ず一定数いますからね。それに実際、隠さなければいけない点があるのは事実です。そこはある程度、割り切ればいいと思います」

 香織も賛同した。

「そうですよ。柳畑が階段から落ちたなんて知らなかったし気付かなかった点と、それが理由で事務所と連絡を取らず警察の捜査からも逃げたのではないことだけ、強く訴えればいいと思います」

「その二つは現時点で詳しく言えないけれど全く関係がない。最低でも当初から予定していた休暇が明け次第、関係各所の皆さんやファンの方々には必ず報告させて頂きますからそれまで待っていて下さいと頭を下げれば、良心のある人達は落ち着くでしょう。そうでない人は何を言ったって騒ぎます。それは覚悟しておいた方が良いでしょう」

 早食いの龍太郎は、既にリンゴまで食べ終えてそう言った。その為香織が声をかけた。

「とにかく食べてしまいましょう。詳しい話は後で」

「そうね」

 朱音は小さく頷き、蕎麦を口に運んだ。

 三人が食べ終わり二人で食器を洗っている間、彼女は再びパソコンの前に座って原稿を読んでいた。手元に龍太郎が先程手渡した白紙をおき、時折何かを書き込んでいる。

 キッチンから出た香織達は、彼女を挟むように座り横から覗きこんだ。その時初めて事務所が作成した原稿を読んだが、確かに龍太郎が言った通り、少し表現方法を変えた方が良いと思われる点はいくつかあった。

 それらを抜き出し、彼女は顔を左右に向けて二人に相談しながら訂正箇所を書き込んだ。そうして出来上がった文章を香織が代行して入力し、ネットに繋げてから事務所に返送した。またこの後の連絡は引き続きDMでとコメントを添付し、ネットを遮断する。

 しばらくすると返信が届いた。内容を精査してから折り返し連絡すると書かれていた。

 よってその間に先程送った原稿をプリンターで印刷し、動画配信用の為の服に着替え雑談したりしながら三十分ほど時間を潰した。

 それからDMにメッセージが入ったので確認すると、訂正した文書でいいから動画を取り、送付するよう指示があった。どうやら許可が出たようだ。

「良かったですね。とにかくこの内容で撮影しましょう」

「じゃあお願いします」

 香織がスマホで朱音の胸から上だけを映し、動画を撮った。さすがは一流の俳優だ。決して短くない内容の原稿だったのに、すばやく暗記してスラスラと口にした。

 その上、画面の向こうにいる視聴者に対して想いが通じるように訴えかける目力と気迫は、一気に引き込まれるほど凄まじかった。これなら多少の疑問点は残るものの、柳畑の死に関わっていないと信じてくれる人が意外と多くいるかもしれないと感じた。

 後はこれを事務所がマスコミに発表した際、どう世間や警察などが反応するかだ。しかしそれはこちらでいくら考えても無駄である。人の気持ちなど簡単にコントロールできはしない。ただやるべきことはやった。それが最も大事な点だろう。

 やはり気が張っていたようだ。朱音が少し疲れた様子を見せていた為、洋間の布団で横になるよう促した。彼女は素直に従い隣室へと移動した。

 それを見送った所で彼が気遣ってくれた。

「香織は大丈夫か。少し休んだ方が良いんじゃないか。寝室で横になっててもいいぞ」

「うん、有難う。まだ大丈夫。それより龍太郎の方が疲れたでしょ」

「ああ、多少はね」

「ちょっと寝たら。少しは楽になると思うよ」

「そうだな。余り本も読む気にならないから、ここで少し寝るよ。香織はどうする」

「私は本を読んでる。ここ二日はほとんど読めていないし、手芸できる気分でもないから」

「無理はするなよ」

「大丈夫。もしかしたら本を読んでいる内に、寝てしまうかもしれないけど」

「それはそれでいいんじゃないか。じゃあ、ちょっと寝るよ」

 彼はそう言ってソファに深く座り、目にハンドタオルを乗せて首を背もたれに預けた。その横で香織は邪魔にならないよう静かに本を開き、小説の続きに目を通し始めた。リビングにいつもの静けさが戻る。だからか物語の世界にすんなりのめり込めた。

 しばらく経った頃、時折横から寝息がスースーと聞こえてきた。やはり彼も緊張して疲れが溜まっていたのだろう。その規則正しい呼吸が子守歌になったようだ。知らない内に香織もうつらうつらとし始めた。 

 長く隠していた秘密を彼に打ち明けられたので、緊張が解けたのかもしれない。またやるべき懸案事項を一つこなし、気が楽になったからだろう。やがて舟を漕いでいたらしく、ハッと気づいた時には小一時間ほど経っていた。

 龍太郎はまだ横でぐっすりと眠ったままだ。ぼんやりした頭を覚まそうと、首を横に振りストレッチし始めた時、何やら外から騒いでいる声が微(かす)かに聞こえた。

何だろうと耳を澄ました所、朱音の名前を呼んでいると気付く。嫌な予感がした為、窓に近付きカーテンの影からこっそり下を覗いた。

 するとそこに見えたのは、一時期大人しくなっていた記者達が再び集まっている姿だった。人数もかなり増えている。それを何人かの制服警官が抑えこもうとしていた。

 慌てて龍太郎に呼び掛けた。

「ねえ。起きて。外が大変なことになっている」

 マンション前の様子を告げると、大きく目を開けた彼は素早く立ち上がった。隣で朱音さんがまだ寝ていると思ったのだろう。外を確認してから戻り耳元で囁いた。

「朱音さんの動画がマスコミに配信されたのかもしれない。確認しよう」

 急いでネットニュース等を見ようとパソコンを立ち上げる。それで騒いでいるのかと納得しかけたが、腑に落ちない点もあった。

「でもどうしてこのマンションの周りに、あの人達は集まってきているのかな」

 香織の疑問はSNSの検索で判明した。ネットニュースにはなっていないけれど、朱音が動画を撮影したことでどこに隠れているのか、様々な憶測が飛び交っていたのである。

 その中で、最初に目撃された溝口のマンション内にいる可能性が高いと、複数の書き込みがあったのだ。どうやらそれが事実かを確かめる為に、彼らは集まってきているらしい。

 念の為、事務所がどのように朱音の動画を配信したのかを確認する。二十分前に発表された会見の内容を見ると若干編集されていたけれど、最も訴えたい肝心な部分はしっかりと伝えられていた。

 その前後に事務所の社長自らが顔を出し説明していたが、特におかしな発言は無かった。また撮影している場所やどこに身を隠しているかも匂わしていない。

 敢えて言えばやはりどうやって本人と連絡を取ったのか、何故彼女は今現在も姿を消したままなのかが釈明しきれていない点は、視聴者にとって釈然としないだろうと思われた。

 ただそれは当初から分かっていたことだ。書き込みの内容からすると、やはりマスコミ達の関心もその二点に集中している。それらを明らかにしようと思えば、彼女の居場所を掴み本人から話を聞くしかない。

 そこでもっとも怪しいと思われるこのマンションに殺到したのだろう。

「まずいな。マスコミはともかく、これだと刑事達も再び動きだすかもしれない」

「また各部屋を訪問して、いるかどうかを確認するのかな。部屋の中を見せてくれと言い出すかもしれないわよ」

「その可能性は高い。彼らも事務所が発表した動画を見たはずだ。さすがに通話したログを辿ってこの場所を突き止めたとは思えないけど、それも時間の問題かもしれないな」

「朱音さんから事務所に連絡し、通話したパソコンを警察に提出したか聞いて貰った方がいいかな」

 香織の提案に、彼はちらっと横目で隣室を見てから言った。

「窓を閉めているしここは防音がしっかりしているから、この程度の騒ぎなら目を覚ますほどじゃない。ぐっすり寝ているようなら、もう少し休ませてあげたいところだが」

 同感だった。しかしその静寂を破りインターホンが鳴った。二人は思わず目を見合わせる。彼が意を決したように立ち上がった。机に置いたマスクを手に取ってからカメラへと近づく。

 香織も立ち上がり、後ろについて画面を覗いた。そこには刑事二人の姿が映っていた。しかもこれまでと同様、既にマンション内の玄関先へ来ていると分かった。

「先に溝口さんの部屋を訪ねたのかもしれないな」

「そうだとしても、ここへ来るのが早すぎるでしょ」

「他を飛ばして、真っ先に来たんだろう」

「それって、ここが一番疑われているってことかな」

「そうかもしれない。これまでのやり取りで、刑事達が勘づいていた可能性はある。あとは今日来た赤坂先生達に事情聴取して、より疑いが深まったのかもしれない」

 二人で話し合っている間に一旦画面が消えた。応答に出なかったからだ。再びインターホンが押され、画面が現れた。

 二回も鳴らされた為、さすがに気付いたらしい。洋間から朱音が顔を出した。

「また刑事ですか」

 口だけ動かしそう尋ねてきた彼女に説明する為、香織はカメラから離れた。そこで耳打ちして経緯を説明する。その間にまた画面が消えたのだろう。三度インターホンが鳴った。

 応答ボタンを押せないまま立ち尽くしている龍太郎を、香織は朱音と共に見つめていた。部屋にいる事は先方も把握しているだろう。よってこのまま無視し続ける訳にもいかない。 といって出た際、どう対応すればいいのか悩んだ。彼もそれを考えているのだろう。

 すると耐えかねた朱音が口を開いた。

「私、出頭しても構いません。ですから正直に話して頂いていいですよ」

「それはまだ早すぎます」

 香織が思い止まるように告げると、彼も同意した。

「そうですよ。その前にまず朱音さんは事務所にDMを送って、警察とどういう話し合いをしたかを至急確認して下さい。連絡を取り合っている件をどこまで話しているのか。逮捕状が出たのかどうかなど聞いてください。その上でこれ以上ここにいたら危険だと思えば出頭すればいいでしょう。それらを確認した後でも遅くありません」

 そうだ。そうしよう。香織は彼に言った。

「これから香織さんに連絡して貰っている間に、龍太郎はなんとか誤魔化して。もし彼女の事務所が警察に全面協力していて、これ以上匿いきれないと思ったら私も出て行くから。来ない間はまだ引き延ばせると思って」

「分かった」

 彼が頷き口に手を当てたので静かにする。応答ボタンを押す為だ。息を呑みながらその様子を見つめた。朱音は洋間に戻りスマホを操作し始めていた。事務所に連絡をするのだろう。

「はい」

 彼が出て刑事と話し始めた。相手が何を言っているかまでは聞こえない。ただ彼は小さく寝ていたと口にしていた。恐らくすぐ応答に出なかった理由を告げているのだろう。

 それから彼が言った。

「今出ます」

 カチリと音がした。応答ボタンを切ったのだろう。彼はマスクをつけ、リビングの扉を開けて玄関先へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る