第36話 決意(龍太郎視点)~3
やや違和感を持ったが、かなり具体的な打ち合わせをしていたと分かる。時間がかかった点も納得できた為、それ以上何も言う必要は無かったので黙って頷いた。
「もう少し待ってて。先生達が帰る時は声をかけるから」
「分かった」
ドアを閉められ、龍太郎は素直に戻った。検査結果を聞くか出産の立ち合いでもない限り、産婦人科の診察に男が同席する理由など無い。
ましてや今回は朱音の診察がメインなのだ。懸念していた件もしっかり香織達で対応してくれたのなら、龍太郎の出番はない。出来るのは時間まで黙って待つだけだ。その為もう一度本を開いて続きを読み始める。
しばらくして寝室のドアの開く音がした。その後香織が顔を出し呼ばれた。
「お待たせ。先生達が帰られるわよ」
腰を上げて見送りに出る。朱音はまだ寝室にいるようだ。玄関先で赤坂達に頭を下げた。
「お疲れさまです。有難うございました」
「いえ。ご主人も大変でしょうが、体を労わって上げて下さい。今が大事な時期です。高齢妊娠は通常の妊婦より、ちょっとしたことでもリスクになりかねません。ただ神経質になり過ぎてもいけないので、これまでと同じく穏やかに規則正しい生活を心がけて下さい。それと明日にはルームランナーが届くようですね。適度な運動も大切です。ただしやりすぎはいけません。その辺りを注意してあげて下さい」
「分かりました」
龍太郎が朱音の夫のように催眠をかけたのだろうかと、内心では首をひねっていた。だが気を遣う点は理解できたので、とりあえず話を合わせ頷いておいた。
「次回は二週間後に来ます。それまで何かあれば、遠慮せずご連絡下さい。では失礼します。お大事に」
「有難うございました」
香織と二人で頭を下げ、彼女達が出てから静かに扉の鍵を掛ける。
「ごめんなさい。かなり待ったでしょう」
「それはいいよ。それより香織の催眠は解けていなかったのか。それとも朱音さんがかけ直したのか」
少し間があってから彼女は答えた。
「まあその辺りは後で説明する」
それから寝室のドアを開けて入った。
「朱音さん、もういいですよ。リビングで話をしましょう。こっちは狭いですから。ああいいですよ。お盆は私が片付けますから」
「いいよ。俺が運んで洗っておくから。朱音さんも疲れたでしょう。先に戻って少し休んでください」
後に続いた龍太郎は、飲み残しがこぼれないようお盆を持った。彼女達が先にリビングへと移動しソファに座っている間、その後ろを歩きキッチンにコップを運ぶ。
水を流してすすぎ、布巾で水滴を拭いながらカウンター越しに話しかけた。
「お腹の子に異常がなくて良かったですね、朱音さん。催眠も上手くかかっていたようで安心しましたよ」
すると香織と顔を見合わせてから、二人は意味ありげに笑った。不審に思い、片付け終わった龍太郎はソファに近づき尋ねた。
「どうしたんです。何かおかしかったですか」
そこで朱音が驚くべきことを口にした。
「香織さんはあの二人に、催眠なんてかけていませんでしたよ」
「はあ?」
理解できずそう聞き返すと、香織が謝りだした。
「騙してごめんなさい。ちょっと言い出し辛くて、催眠をかけたことにしたの」
「どういう意味だ。催眠をかけていないのに、どうして訪問診察してくれたんだよ」
「香織さんは赤坂先生達に事情を説明し、協力してくれるよう頭を下げてお願いしてくれたの。でも龍太郎さんの了承も得ず勝手に先走ったことを言い出せず、催眠術をかけたと誤魔化したみたい」
代わりに朱音が説明してくれたが、それでも腑に落ちない。
「いや、でも俺の目の前で、寺内さんにかけていたじゃないか」
「あれも二人に、かけられた振りをして貰うよう頼んだの」
香織によれば、診断が終わり龍太郎を呼ぶ前に朱音を匿っている件を打ち明け、協力の約束を取り付けられたという。それが独断だった為、催眠にかけられたという茶番を演じて貰ったようだ。
面倒な真似をわざわざ依頼したのは、そこまで付き合ってくれれば信頼できる人だと判断できると考え、試す意味もあったらしい。
また彼女達が寝室で朱音の診察をしてくれた後、改めて本人から再度経緯を説明しここに匿われている件を黙っていてくれるよう、頭を下げたという。
話を聞いて先程香織とのやり取りの中で持った違和感や、赤坂が去り際に言った意味が理解できた。それでもまだ何かが足りない気がして、茫然としていたところでさらに驚愕の事実を告げられた。
「それとね。昨日の診断で妊娠していないと先生が言ったのも、実は嘘なの。本当は六週目だって。だから次の二週間後の診察は、私も一緒に受ける予定。二十三週目までは四週間に一回の診察なんだけど、高齢妊娠だと二週間に一回は診た方が安心だからそうした方が良いって言われた」
龍太郎の頭は混乱した。昨日散々病院へ行く途中と待合室で考えていた様々な事柄が、再び飛び交う。と同時にその後妊娠していなかったと告げられ、内心ホッとしていた自分がいたと思い出す。
そこで焦った。帰り道に香織とその件で話し合ったはずだ。あの時自分は余計な事を言わなかっただろうか。彼女を傷つけるような言葉を発しはしなかっただろうか。
沈黙が続いたからか、彼女は再び謝った。
「ごめんなさい。どうしても本当の事が言えなくて、どうすればいいか分からなくなっちゃったの。だって経済的な問題も含めて不安だから、結婚して二人だけで支え合おうと決めたでしょ。なのに子供が出来たらそうはいかないし約束も違ってくる。お金や龍太郎の病気だけじゃなく、私の精神状態も考えてちゃんと育てられるか、全然自信が無かったの」
「だから俺を試すような真似をしたのか」
咄嗟に口から出たのは、自分でも驚くほど尖った声だった。
「本当にごめんなさい。でも妊娠したかもって知った時や、していなかったと聞いた後に龍太郎が言ってくれた言葉で、私は気持ちが楽になったの。本当はもう少し隠しておくつもりだったのに、朱音さんの件もあったりしてこんな感じになっちゃったけど、早めに言えて良かった」
涙ぐむ彼女を見て、どうやら二人の関係を壊してしまうような話はしなかったらしい。それが分かっただけで安堵した。そこで改めて気が付く。つまり龍太郎は父親になるのだ。
そう思った途端、自然と目に涙が
しかし首を振った。いや、まだ油断できない。彼女はもう四十五だ。しかも二十代後半から三十代半ばまで不妊治療していた身である。それなのにここに来てお腹に子を宿したのだ。
「それで香織の体は異常ないのか。まだ妊娠初期で安定期にも入っていないだろう。先生はこれまでと同じように規則的な生活をしていれば良いと言っていたけど、他に注意しなければいけない点は無いのか。ルームランナーで運動するだけでいいのか。他に何か食べた方が良いものがあるとか、駄目な物とかは言っていなかったか。体を労わってとも言ってたな。じゃあこれから食事は全部俺が作るよ。洗濯もあったな。寝る時は同じベッドでいいのか。一緒だとぐっすり寝られないのなら、別にした方が良いか」
クスっと香織が笑い、朱音は膝を叩いて破顔した。
「何が可笑しい」
「だって取り乱し過ぎ。そんなに慌てなくても大丈夫よ。確かに気を付けなければいけないとは思うけど、神経質になり過ぎてもいけないとおっしゃっていたでしょ。適度な運動は必要だから、今まで通りで良いんじゃないかな」
「だけど買い物は控えた方が良いだろう。余り出歩くと危ないからな。外へ出ない分はそれこそルームランナーを使えばいい」
「まあ、二人共落ち着いて。それに龍太郎さんは香織さんに、まず言う事があるでしょう」
朱音に言われハッとする。そこで息を整えて告げた。
「香織、妊娠おめでとう。そして有難う」
彼女は真顔に戻り、また目を潤ませながら言った。
「あ、ありがとう。でも、いいの」
「良いも何も、前に言っただろ。何よりも大切なのは香織の命であり、その次に子供の命だ。男の俺より大きなリスクを負う香織が覚悟を持ったのなら、全力で支えるって。もちろん将来的な不安はあるけど中絶はあり得ないだろ。だから腹を括るよ。そして今出来ることは何かを考えればいい。朱音さんを見習ってな」
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