第3話 穏やかな日々の崩壊~3

 目覚まし時計が鳴り、目を覚ました龍太郎はアラームを止めて体を起こす。隣にいる香織も起きたようだ。

「おはよう」

 互いに声をかけ、先にベッドから出てトイレに入る。入れ替わりに香織が入ったので、龍太郎は台所へと移動した。前の晩にパックで煮出し、冷めてから冷蔵庫に入れたほうじ茶をコップに注ぎ、二口程飲んで乾いた喉をうるおす。その後カーテンを開け窓の外を見た。

 昨日から晴れが続いている空に雲はほとんどなく青かった。東の角部屋のこの部屋に、晴れの日は日射しが良く入る。よって朝から部屋の中は明るい。

 しかし最低気温がそれほど下がらなかったからか、部屋の室温は二十八度を保っている。この分だとしばらくすれば、窓を開けなければならないだろう。

 予報では十月に入ったというのに、最高気温が三十度近くまで上がると言っていた。それなら早めに換気して、冷えた空気を入れた方が良い。

 そう思いながら、布巾ふきんでダイニングテーブルとリビングテーブルを拭く。次にテレビの電源を入れ、リモコンで音を大きくしてから布巾を台所に戻す。

 香織が出て来て洗濯物を洗う準備をしていた。今日の天気なら、干したまま買い物に出かけても大丈夫だと判断したからだろう。

 その間、龍太郎は主に室内で使っている香織お手製の布マスクをつけ、玄関のドアを開けた。まず人に会う確率は少ないが、このご時世でマスクをめていないまま外に出ると、どう思われるか分からない。また顔を隠している方が精神的にも落ち着くからだ。

 一階まで降り、ポストに入っている新聞やチラシなどを回収する。念のため宅配ポストを覗いたが、何も入っていなかった。住民の要望によりコロナ禍で使用頻度が高くなった為、これまで共通だったものが今年から各戸それぞれに設置されたものだ。

 しかもわざわざ外に出なくとも、中から個別に出し入れ可能になっているすぐれモノだった。古いけれどこうした物を取り入れてくれる柔軟性が、このマンションの良いところだろう。ちなみに費用は積立金でまかなわれたそうだ。

 今日は月曜日だからか新聞は薄く、チラシも少ない。一面に書かれている見出しに軽く目を通しながら部屋へ戻り、リビングのテーブルの上に置いてから龍太郎は台所に入った。

 流しで手を洗い朝食の準備を始める。トーストを二枚、オーブンレンジに入れてタイマーを回す。次にお湯を沸かしながら、冷蔵庫から卵とレタス、ミニトマトとハム、バターを取り出した。レタスを手で適当な大きさにちぎり、トマト二つとハムを一枚、バターナイフの上に少しだけバターをつけ、それぞれ二人分の大皿に乗せる。

 残りを冷蔵庫に片付けてからフライパンを出し、軽く油を引いてから卵を二つ割った。二人とも黄身は半熟が好きなので焼き過ぎないように気を付け、良い頃合いを見てフライ返しで二つに切ってからすくい皿に乗せる。

 醤油の代わりにバルサミコ酢を少々かける。粉のコーヒーをフィルターに入れ、湧いたお湯を注ぐ。丁度パンが焼き上がったのでそれも皿に置いた。後はコーヒーをコップに注げば完成だ。

「出来たよ」

 洗濯機を回しながら待っている間、ソファに座り新聞やチラシをチエックしていた香織に声をかける。

「は~い」

 腰を上げた彼女はダイニングテーブルの上に、龍太郎の座る位置へ新聞を、チラシは自分の方へと置く。洗面所へと向かい手を洗ってから席に着いた。

 龍太郎はその間に、皿やコーヒーの他にフォークをセットする。

「いただきます」

 二人で軽く手を合わせ食べ始めた。龍太郎はトーストにまずバターを塗り、その上にハム、次にレタスを乗せる。目玉焼きの白身の部分だけをバターナイフで切り取り、レタスの上に置いて半分に折りサンドイッチのようにしてから一口食べた。

 フォークでミニトマトを突き刺し口に放り込み、またパンをかじる。コーヒーを一口飲んで、トマト、パンと食べ、最後に残った半熟の黄身の部分を割れないように気を付けながら口に放り込む。

 この間およそ三分だ。せっかちな性格だからか、こうするのが癖になっている。食べ終わってからゆっくり新聞に目を通しつつ、テレビから流れるニュースに耳を傾けた。

 香織は普通に、パンとサラダと目玉焼きとコーヒーを順番に手を付けて食べる。その間にいつもなら、気になったものや買い物に関係するチラシに目を通す。だが今日は少なく必要なかったからだろう。テレビを見ていた。

 そこで彼女が言った。

「あの政治家、亡くなったみたいね」

「そうらしいな。新聞にも載っているよ」

「階段から落ちたようだけど、殺されたかもしれないんだって」

 記事ではそこまで書かれていない。夜遅くだったからか、恐らく掲載する時点だとそこまでの情報が入っていなかったのだろう。だが朝のニュースでは、新たに判明した事柄を述べていた。それを耳で聞いていた龍太郎は、テレビ画面に目を移して言った。

「事故と事件の両面で調べているみたいだな。“憎まれっ子世にはばかる”を地でいく政治家だと思っていたけれど、世の中そうはいかないって事か」

「死んだ人の悪口は言いたくないけど、反社会勢力からお金を貰って逮捕されたというのに、まだ議員を続けていたんだから罰が当たったのかもしれないね」

「議員の給与は税金から払われるんだからな。直前に争っていた女性が誰かはまだ報道されていないけど、恨みを買っていたとしてもおかしくないだろう。もしかすると、反社の人間に口封じされたのかもしれないしな」

 暴力団のフロント企業から金銭を受け取り逮捕されていた柳畑が、昨夜九時過ぎ頃にホテルの非常階段から落ちて頭を打ったようだ。意識不明のまま緊急搬送されたが、今日未明に病院で死亡が確認されたという。

 足を滑らせ転倒した可能性はあるが、秘書とホテルの従業員が駆け付け発見する直前、ある女性と揉めていたとの証言もあるらしい。その日は大手広告代理店が主催するパーティーが開かれており、柳畑はそこに出席していたようだ。

 問題となっている女性も同じく出席者のようで、現在事情を聞く為に重要参考人として行方をさがしていると報道されていた。

 ただ緊急事態宣言は解除されているけれど、多くの人が集まる立食会を開いていた点が気になった。ネットなどを覗けば、そこも多少批判されているかもしれない。

 コロナ禍になってからそうした線引きが曖昧あいまいで、人それぞれ解釈が異なるケースは頻繁に起こり、その度にイラっとさせられた。これが新たに生まれたストレスと言えるだろう。

「この女性って逃げているのかな。だったら事件の可能性が高いわよね」

「そうかもしれないな。だけど捕まるのは時間の問題だろ。パーティーの出席者だと分かっている訳だし、ホテルだとあらゆる所に防犯カメラがある。東京なら外へ出ても同じだ。逃げられる訳がない」

「そうよね。あとは事情を聞いて、本当に殺したのかそれとも事故だったのかを確認すればいいだけだろうから」

「普通だったらホテルの非常階段にも防犯カメラくらいあるはずだけどな。そこに映っていたら、事故か事件かなんてすぐ分かるはずだろう。両面で調べているってことは設置されていなかったか、死角になっていたのかもしれないけど」

 そこまで話したところで香織も食べ終わっていた為、席を立ってテレビを消し二人で皿を洗い片づけ始めた。だが途中で彼女が顔をしかめ、腰に手を置いた。

「どうした。痛いのか」

 彼女は以前、ギックリ腰をした経験がある。よってそれが再発したのかと心配し、龍太郎は尋ねた。すると彼女は微妙な表情を浮かべて言った。

「うん。ちょっと」

「大丈夫か」

 今日は九時過ぎから買い物に出かけなければならない。それまでに香織は洗濯を済ませ、龍太郎は床の掃除をする予定だ。

「うん。少し頭も痛いから、いつものように薬を飲んでおく。心配しないで」

 彼女は一カ月に一度くらい、市販の頭痛薬を飲むことがある。生理痛とは違うらしいが、ホルモンバランスや自律神経の関係かもしれない。

 女性の体については男が理解しようとしても無理だ。それに龍太郎の体調だって、香織に説明して真に分かるものではないのと同じだろう。これは自分でしか分からない。医者だって同じだ。

 よって彼女が問題ないと言うのなら信じるしかなかった。それに顔色が悪い訳でもなさそうだ。念の為に彼女のおでこを触ったが熱はない。

「じゃあ、いつも通りでいいか」

「うん」

 食器を片付け終わったのでまず歯を磨いて顔を洗う為、龍太郎が先に洗面所を使った。前回出かけたのは木曜日だ。その間外出していないので、無精髭ぶしょうひげを生やしたまままである。マスクをするとはいえ、そのままというのはさすがに気が引けるし汚らしい。よって綺麗に剃った。

 さっぱりすると、交代で香織が使い始める。龍太郎はフロアモップとハンドワイパー、小型のほうきとちりとりのセットを物置から取り出す。使い捨てのシートがまだ使えるかを確認してから、まずはフローリングの床のほこりを取り除いた。

 この部屋の間取りは二LDKだ。元々は三LDKだったけれど、龍太郎や姉がマンションから出て、両親だけになった数年後にリフォームをしていた。

 南はベランダで大きな窓があり、そこに面して一部屋分を繋げL字型に広く取ったリビング。その隣に本棚等が置いてある六畳余りの洋間が一つ、北側に二人の寝室として使っている同じ広さの部屋が一つある。ダイニングキッチンの西側が洗面所で、横に洗濯機を置いていた。その奥が浴室だ。トイレは玄関か北側の部屋に向かう扉を開けた先にあった。

 台所の水回りや浴室、トイレの掃除等は時間がかかる為、別途一週間か十日に一回のペースでやっている。窓拭きや換気扇等の掃除は、三カ月から半年に一回程度だ。

 ベランダは香織が洗濯物を干す際、あるいは収集日まで一時的に溜まった燃えるゴミやプラスチックごみ等を保管するストッカーに出し入れする際、汚れが気になった時だけ清掃していた。

 比較的こまめにしている為、年末などにわざわざ大掃除はしない。十二月なんてただでさえ寒いのに、窓を開けたりしたくないからだ。また一気にやると体が疲れてしまう。

 よってできるだけ春や秋といった暑すぎず寒すぎない時期に済ませ、一回の掃除に負担がかからないよう回数を増やす方法が龍太郎達の慣習だった。

 最初はリビングから始め、ハンドワイパーで冷蔵庫や食器棚の上、カーテンレールやエアコンの上など高い場所の埃を落とす。それからシートでは取り切れないゴミなどを一か所に集めちりとりで取る。

 この作業を身長百五十センチもない香織がすると、いちいち椅子を持ってこないといけない。だから掃除は、彼女より二十センチ以上高い龍太郎の担当となったのだ。

 テレビ周りやパソコンなどが置いてある机周辺も、モップとワイパーを駆使して埃を払い落す。次は西側の引き戸を開け洋間に入り、同じく床を掃くなどしてゴミを取った。

 姉が出戻ってきた際に使用していた部屋だが、今では本や押し入れを改造したクローゼットの中の物を取り出す時しかほぼ使っていない。

 外の窓と接していないので、南側から日光が入るよう天井近くに明り取りの小窓がある。だが曇りや雨の日は灯りをつけないと暗い。それでも誰かが泊まりにくれば、予備の布団がクローゼットにある為、ここで寝られようにはしていた。

 しかし二人とも友人達との接点をほぼ断っているので、そんなケースはまずない。また龍太郎達は物を多く持たない主義だから、置き場所に困る心配も無いのでここはがらんとしたままだ。

 洗濯をし終わり外へ干そうとする香織が、入れ替わるようにしてリビングへ入って来た。龍太郎は洋間を出て、寝室と玄関先も掃除し終わってから道具を片付けた。時計を見るともう八時半を過ぎていた。そろそろ着替えようと寝室に戻る。

 先に香織がいて化粧台でメイクをしていた。その横でウォークインクローゼットから靴下やシャツなどを取り出しベッドの上に置く。寝間着を脱ぎ、下着だけになって体重計に乗る。事前に身長と年齢、性別を入力している為、BMI数値や体脂肪率や内臓脂肪の他に、筋肉量や基礎代謝量や体内年齢まで出る優れものだ。

 龍太郎は外出する為に着替える時しか使わないが、香織は毎日寝間着から部屋着に変えている為、毎回測っていた。元々痩せているのに、

「少し体重が増えた」「脂肪率が減った」

などと一喜一憂いっきいちゆうしている。それでも二人とも健康に気を使った食事をしているせいか、体内年齢は最も低い数字が表示されていた。

 先に着替え終わった龍太郎がクローゼットに置いてある買い物袋を持ち部屋を出て、リビングへと移動しソファに腰かける。

 彼女が準備し終わるまでの間など少し時間があれば脇に入れてある本を取り出し、少しでも読み進める場合が多い。ただ余り気分が乗らない時などはぼうっとしているだけだ。

 今日は調子が良かったので読みかけの小説に目を通してると、しばらくして香織がリビングに入って来た。だが直ぐ洗面所に移動したようだ。余り身だしなみにこだわらない龍太郎と違って、外へ出る際の香織には色々な段取りがあるからだろう。

 女性は化粧などもしなければならない。僅か三年間だったが、二十七歳の時に一度結婚生活を経験していた為、こういう時に相手をあせらす行動は慎むべきと心得ている。

 実際急ぐ必要もない。よって彼女から声がかかるまで、黙々と本に目を通す。ただ正直、この時点で内容は余り頭に入ってこない。なので後から再び読み返す必要があった。

 それでも朝から相手を不機嫌にさせれば、こちらに跳ね返ってくる。負の感情をぶつけられれば自分が損することは明白だ。そう考えると、本を読み返す程度で済むのなら大した手間ではない。

「お待たせ」

 香織に呼ばれてから、龍太郎は本を閉じ片付けて振り向く。その後待っていないとばかりにゆっくり立ち上がって答えた。

「ああ、行こうか」

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