第4話 穏やかな日々の崩壊~4

 不織布マスクをつけ、買い物用のマイバックを持ち二人で玄関の外へと出た。これから歩いてスーパーに向かう。自転車は一人一台持っているけれど滅多に使わない。

 車はここへ引っ越してきた頃まで持っていた。香織の家でも一台あったが、彼女と結婚してから話し合いの結果、二台とも売却したのだ。

 互いにまず滅多に使わなかったし、駐車場や保険、車検やガソリン代などの維持費を計算したところ、年換算で一台三十万円近くになった。その結果、万が一の際でもタクシーを使った方がお得だと判断したのである。

 現に手放してからこの三年間、買い物の帰りに突然雨が降ってきたため二度ほど乗り、二千円余り払っただけだ。電車代などを合わせても二万円以内でおさまったと思う。

 名古屋は車社会と言われるが、地下鉄やバスなどの交通網はしっかりしている。それにただでさえ遠出などしない二人には必要なかった。

 しかもコロナ禍になる少し前から栄や伏見、名古屋駅周辺などの繁華街もほとんど行かなくなったので、直近二年近くは電車さえ乗っていない。区役所などに行く際だって以前はバスを使っていたが、二十分ほど歩けば着くと分かってからは利用しなくなった。

 雨が強く降る日は出かけない。買い物に行く予定日だったらずらせばいいだけだ。二人の時間などいくらだって融通が利く。また数少ない外出時くらい歩かなければ、健康上よろしくない。

 本当は日を浴びる為に、毎朝でも一定時間散歩でもすればいいのだが、そうした日課を続けるのはなかなか困難だ。そのため出かける時には、できるだけたくさん歩く習慣をつけたのである。

 今では一回の外出で、最低往復五〇分以上は歩く。買い物中も含めればそこそこの距離だ。それを週二回の買い物と月一~三回の外出を合わせれば、三日に一度のペースで一時間ほど歩く計算になる。それ位の運動量があれば十分とは言えないまでも、運動不足にはならないだろう。そう考えていた。

 その他、腰痛予防の為にと始めた腹筋と背筋運動を毎日している。また日々の食事では塩分や脂肪分の取り過ぎに注意し、健康を維持してきた。

 そのおかげもあって、二人共この三年余りの間に風邪一つひいていない。それは互いに体が資本だとよく理解しているからだろう。

 午前中に買い物を終えお昼前に戻ってきた。このマンションは古くしかも四階立ての為エレベーターがない。よって足腰が鍛えられると思いながら階段で上がる。これも荷物が重ければ結構な運動だ。しかし今日はいつもより少なかったからそれ程でもなかった。

 買い物袋は龍太郎が持ち、四階まで昇る為に脇目も振らず足元だけを見ていた。けれど自分の財布や何やらが入っているショルダーバッグだけを持った香織は、何気なく左側を向いたらしい。

 最上階に着いて右側に行くと自分達の部屋の玄関がある。そこで曲がり鍵で扉を開ける前に、持っていたアルコール液を取り出し手を消毒してから中に入った。すると彼女が小声で言った。

「あのね。さっき二〇一の玄関口で、中年位の女の人を見かけたの」

 そこは昨日話題に挙がった溝口の部屋だ。七十五歳の彼女は確か十年以上前にご主人を亡くし、二人の息子は独立してそれぞれ別の場所で暮らしており、今は一人暮らしだと聞いたばかりである。

「へぇ。息子さんのお嫁さんか誰かが来ているのかな」

 買い物袋をダイニングテーブルに置き、うがいをする為にマスクを外して洗面所へと移動しながらそう言った。食材等を冷蔵庫に収納するのは、基本的に几帳面きちょうめんな香織の役目になっている。龍太郎がするより綺麗にできるからだ。

 彼女はその作業をしながら話を続けた。

「一瞬そうかと思ったんだけどね。でもなんとなく似ていたのよ」

「誰と」

 口をすすぎ終わり、持っていた財布や携帯、ポケットティッシュなどをポケットから取り出し、所定の場所に戻しながら尋ねる。

「昨日話していた、緑里朱音よ」

「はあ?」

 余りにも突拍子もない名を出され、思わず奇妙な声が出た。

「それは無いだろう」

 だが彼女は頬を膨らませ反論した。

「彼女の話をしたばかりだから、そう見えたと思ってるんでしょ。でも違う。私も勘違いだろうと二度見したけど、雰囲気が良く似ていたんだから。少なくとも、息子さんの奥さんではないと思う」

「その人達に会った事はあるの」

「ちゃんと挨拶したことは無いけど」

 声がやや小さくなった。余り自信は無いらしい。

「だったらよく似た、どこかの人が訪ねて来ていただけじゃないのか」

 そう言ってから、留守中は閉めていたので部屋の温度が上がっていた為、換気しようと網戸がある方の窓を開ける。それから部屋着に着替えようと龍太郎は寝室へと向かった。

 服を脱いで洗うものと仕舞しまうものを分けていると、同じく着替えの為に彼女も部屋へ入って来た。そこで首を傾げながら言った。

「緊急事態宣言が解除されたばかりで、七十代の人の所に他所よその人が尋ねてくるかな」

「それだったらお嫁さんだって同じだろう。勘違いしている人が多いけど、宣言解除されたからといって、別居している身内でも行き来して良い訳じゃない。気を付けなければいけないのは同じなんだ。高齢者のワクチン接種はかなり進んでいるけど、油断なんてできないからな」

「それはそうだけど」

「俺は溝口さんという人がどんな人か良く知らないけど、宣言があろうがなかろうが昼カラに出かけたり友人知人と会食したりする人は、年齢問わず一定数いる。そんな人なのか」

 彼女は荷物を片付けたり着替えたりしながら言った。

「そんな人じゃないと思う。最近は余り話して無いから、私も良く知らないけど」

「まあ極端な話をすれば、俺達に影響がなければ知ったこっちゃない。マンション内で陽性者が出たら迷惑だとは思うけど、こっちがマスクをつけてうがいや手洗いなどの消毒をしっかりしていれば、感染する可能性はまずないからな」

「でも廊下とか共有部分で長時間会話されて、空気中にただよっていたら危ないよね」

「今日みたいにさっさと通り過ぎていれば、まず感染する確率は低いよ。大声で話している最中に、真横を通る場合じゃなければだけど」

 そこで一旦話を中断し部屋を出る。着ていたシャツ等を洗面所の洗濯かごに放り込み、戻ってトイレに入った。便座に座っている間、龍太郎は一年前と今の状況の違いについて考えていた。

 コロナ禍の当初は高齢者が重症になりやすく命に危険が及ぶと騒がれ、別居している子供達や孫に会えないとなげく人達が多かった。しかし時を経て、徐々にどういう病気か分かって来たからか、経済活動を優先し始めた。感染が収まりきらない内にGOTOキャンペーンとめいを打ち、旅行や飲食を促進したのである。

 そのせいで昨年の夏休み頃には第二波が起こり、二〇二一年の年明けには爆発的な感染第三波が起こった。見込みが甘く政治的判断が優先し、年末に国会を閉めて緊急事態宣言の発令が遅れたことも拡大の要因となった。

 けれど度重なる自粛要請に飽きたからか、要請している側の政府や官僚、自治体の職員自らの無責任な行動に呆れたからだろう。また今年に入り夏を過ぎてから、ワクチン接種もかなり進んだ。よって今では帰省を控えたり、家族以外の人との飲食や会話や接触を避ける行動を取ったりする人の割合は、かなり少なくなった気がする。

 一年前には誰も歩いていないと言っていた街の様子など、今はまず見られない。変異株の影響もあり、あの頃よりずっと感染者数や死亡者数が増え、医療の現場も相当疲弊したにも拘らずだ。慣れというのか人の欲の限界と言えばよいのか分からないが、龍太郎にはよく理解できなかった。

 もちろん働いている人は大変だろう。リモートワークが促進されたとはいえ、サービス業などを筆頭に出来ない業種も沢山ある。よって嫌でも混雑した電車に乗り、人混みを歩いて複数の同僚または不特定多数の人達と接する機会を強いられている人は気の毒だと思う。働いていない龍太郎達をみれば、羨ましいと思われるかもしれない。

 だがその一方で夜飲み歩く人や、昼間に複数人で集まり飲食しながら会話する人達が増えたのは確かなようだ。それでもそんな人達にいちいち腹を立てていては、こちらの心の健康に悪い。それに例え注意したからと言って、聞く耳を持つような人種ではないのだ。

 ある意味宗教や思想が違う、趣味嗜好が異なる者に自ら信じる神や思考に洗脳するくらいのパワーが無いと難しい。いやそれでも無理だろう。理解できる人ならとっくに行動しているはずだからだ。

 ならばどうすればいいか。それは巻き込まれないよう、自分達の生活に即した動きをするしかない。コロナ禍以前から続けている週二回の買い物以外は、不要不急の外出をしなければいいだけだ。といって週二回を一回にするほど神経質になる必要もない。

 そうしてしまうと歩く距離が減り、買い物の量が増え荷物も重くなる。また賞味期限の関係や、食材選びに苦労してストレスが増すだろう。それでは健康上余り良くない。

 また以前外食していた分は馴染みの店に申し訳ないけれど、テイクアウトで済ませば精神衛生上良いと二人で話し合った。それが最善策であり、間違っていなかったと一年余り経った今では確信している。

 トイレを出た龍太郎はリビングへと戻った。香織は昼食の準備に取り掛かっている。その為テレビの電源を入れソファに座った。リモコンを操作しお昼のニュースにチャンネルを合わせ、朝読んでいた本を取り出す。食事の用意が出来るまでは自由な時間だ。 

 アナウンサーの声を聞きつつ、途中になっていた話の流れをさかのぼって読みながら思い出す。だがそこで、朝流れていたニュースの続報に耳が反応した。香織も気付いたらしい。 

 こちらに声をかけて来た。

「ちょっと聞いた?」

「ああ」

 後ろを振り向き頷いた後、本を閉じて画面に目を向ける。そこには昨夜亡くなった柳畑議員とホテルで揉めていた女性が、驚いた事にあの女優の緑里朱音だと言っていたからだ。しかも朝同様、彼女と連絡が取れず行方を捜しているという。

 事情を良く知る重要参考人として、警察は捜査を続けていると伝えていた。所属事務所もコメントを出し、現在確認中だが今晩には会見を開くらしい。

「おいおい、緑里朱音が重要参考人だなんてすごい話になったな」

「まさか議員を階段から突き落とし殺しちゃって、逃げているんじゃないわよね」

「その可能性があるから警察も動いているんだろう。それに普通なら、事務所と連絡がとれないなんてまず考え難い。何か裏の事情があるのかもしれないな」

「裏の事情って」

 離れていると会話がしにくいのでダイニングテーブルへと移動し、席に座りカウンター越しで話しかけた。

「報道はされていなかったけれど、まず昨日の夜の段階で揉めていたのが彼女だと分かっていたはずだ。誰か分からない人または一般人だから、ニュースでは女性とだけ言っていたのだろうと思っていたけど、違っていたらしい」

「そうか。緑里さんがパーティーに出席していたのなら、そこにいる人達に聞けばすぐ彼女だって誰もが分かるはずだよね」

「そう。でも朝の時点で彼女の名前を出すのはまずいと判断され、意図的に伏せられていたんじゃないかな」

「それはそうよね。事件か事故の両面で調べているって言っていたから、彼女の名前が出ると犯人かもって大騒ぎになるもの」

「だけど今発表しているってことはかなり事件性が高くなったか、または出席している人達からリークされて隠せなくなったのかもしれない。普通の一般人ならいくら怪しくても、相当な証拠が出て来ない限り名前は伏せるはずだからね」

 今はマスコミでなくとも、SNS等に書き込めば一気に拡散される。今回の件もパーティーに参加していた誰かが柳畑と一緒に居た状況をスマホで写真や動画を撮り、ネットにアップした可能性は否定できない。そうなればいくら警察がマスコミに報道規制していたとしても、揉めていたのは緑里朱音だとやがて明らかになる。

 ニュースの内容はもう次の話題に移っていた。香織はパスタを茹で、市販のソースを混ぜ終わったようだ。そこで一旦会話を止める。彼女が皿に移しカウンターに置いた。それを受け取りテーブルに置く。飲み物は二人共、冷やしたほうじ茶だ。

 席に座って向かい合い、手を合わせる。

「いただきます」

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