第2話 穏やかな日々の崩壊~2
「え? そうなの? 初めて聞いた。でもあの人って名古屋出身じゃないよな」
「うん。東京出身。溝口さんのお姉さんが東京へ出て、そこで結婚したらしいよ」
「だったらこのマンションへ遊びに来たことがあるかもな」
「多分、何度かあると思うよ。二十年位前に一回だけ、それらしい人を見かけたことがあるから。あとで私のお母さんがさり気なく聞いたんだって。そうしたら、もう帰ったけど内緒よ、時々来るのって言われたらしいよ」
「そうなんだ。香織が会社に入ってからだよな」
「うん。まだ入社して間もない頃だった気がする」
香織とは同じ小学校に通い、一緒に私立の中高一貫校を受験して合格した。だから卒業するまでの八年余り、このマンションからずっと同じ場所へと通っていた間柄だ。といってその当時は特に親しくなかった。それどころか少し距離を置いていた記憶がある。
その後彼女は地元の大学へ進学し、卒業後もここから通える会社に就職した。結婚後に家を出たけれど辞めずに働き続けていたが、離婚後また戻って来たので名古屋から離れた経験がない。
そんな彼女とは対照的に、龍太郎は東京の大学へ進学して大手保険会社に就職。転勤族だったから仙台、大阪、静岡、大宮とほぼ四年周期で住む場所も点々としてきた。
「どうだった やっぱりオーラを感じたか」
彼女は大きく頷いた。
「うん。それに実際見ると、小顔で綺麗だったよ。あの頃だって世間では美人というより、個性派って感じで扱われていたじゃない。でも違った。脇の人であのレベルなら、主役級ってどれだけすごいのかなって思った。それにまだ当時は体も細かったからね」
その通りだ。龍太郎も東京に住んでいた頃、街中で何度か有名人とばったり出くわしたことがある。中にはテレビで見たままという人もいるけれど、特に俳優さんは顔の小ささが一般人と次元が違う。それ程でもと思っていた人でさえ、生で見たらとんでもなく美形だったりするのだ。
「そういえば最近はぽっちゃり系で定着しているな。テレビでよく見かけるようになった十代の頃とは、かなり印象が変わった気がする」
「外見はそうね。でも演技は昔から上手かったでしょ。バラエティの影響でここ十年位は天然キャラのイメージが強くなっちゃったけど、私は大好きだな」
だから彼女は雑誌やネットなどで緑里朱音の記事を見つけると、よく目を通すようにしていたという。よってここ最近の動向なども知っていたのだ。
「同性からも好かれやすいタイプかもね。男から見てもさばさばしていて感じがいいから、好感度は高いと思うよ。だからCMにも長い間、使われ続けているんだろうな」
龍太郎がそう言うと、彼女も賛同しつつ残念がった。
「そうだと思う。この秋から始まるドラマで、いま発表されているキャストの中にはいなかったから出ないのかな。この夏に出演したばかりだから、次は冬ドラマかも」
「後から追加で発表される場合もあるし、刑事ドラマのような単発や二時間ドラマでゲスト出演するパターンだってあるだろう。観る予定のドラマに出てくれるといいけどな」
「そうね。あっ、もうこんな時間。そろそろ片付けようか」
「うん。ごちそうさま」
二人は手を合わし、一旦会話を終わらせ各自の皿をカウンターに置き席を立った。
二人でキッチンに入り洗い物を始める。それが終われば香織はお風呂を沸かす用意をし、タオルや着替えの準備をするのだろう。その間、龍太郎はソファに座り新聞のテレビ欄を見ながら、今夜予約する番組を確認して録画予約を行うのだ。
またいつも先に入浴する香織が出てくるまでは、一旦テレビを消して本を読む。後で龍太郎が湯船に
二人が
十一時近くまでに時間が余ればチャンネルをニュースに合わす。しかしその日は区切りが良い所でテレビを消した。七時間は睡眠するよう心掛けているので、その後は歯を磨き翌朝起きる六時半に目覚ましをセットして寝るだけだ。
「おやすみ」
電気を消していつものように二人は眠りに入り、今日も変わりない一日を過ごした。
明日の午前中は、徒歩二十分程の場所にあるスーパーへ食材の買い出しに行く予定だ。朝食は龍太郎が用意し、帰宅した後の昼食は香織が作る。
その後はそれぞれ好きな事をやる時間に充てていた。龍太郎はリハビリを兼ね、読書や体調回復後の就職を見据えたCFP資格の勉強をしている。
香織は龍太郎より一年早く会社を退職していた。主な理由は彼女の父親が病死し、母親も体調を崩していた為に介護が必要だと思ったからだ。その母親も三年余り前に亡くなった。しかしその後、再び外へ出て働く気にはならなかったらしい、
そこで心機一転、趣味だった手芸を本格的に始め、今はせっせと様々な作品を作り完成させてはネット販売をしている。他にもそうした手作りされた小物を専門に扱う雑貨店へ置かせて貰い、小遣い稼ぎ程度には儲けを出していた。
二人はこれまで働いて貯めたそれぞれの預貯金と、親の死等により得た遺産を取り崩して生活費に充てている。また結婚してからは香織が龍太郎の部屋に住み始めた為、彼女が所有する二〇二号室は分譲賃貸にしていた。そこで得る家賃が最も大きな収入だ。
ただそれだけだと家計の収支はマイナスである。しかし固定資産税はかかるが、特別贅沢をしなければ光熱費や二人分の食費などを合わせても、年金が支給されるまではなんとか無収入で生活できる目算を立てていた。
もちろんそれだけで安心安定の老後を送れるとは限らない。マンションも既に築三十五年だ。二人が六十五歳になる二十年後以降、どこまでもつか分からない。もし建て直すとなれば相当な費用がかかるだろう。
それに龍太郎達や分譲賃貸で入居している
けれどこれ以上時が経てば古すぎて、誰も住もうとは思わなくなるかもしれない。そうなればマンションを取り壊し、土地を売却した利益を所有者で分け合う形を取るしかないだろう。だが現実的には売却価格で所有者全員が納得するかと言えば、難しいと思われる。
その時期や状況によって龍太郎達もどうなるか、将来の先行きは不透明だ。そうした万が一の状況に備え、やはり頼れるのはお金である。よって今はまだ止むを得ないけれど、いずれはしっかりとした収入を稼ぐ必要に
先々を考えれば正直不安に駆られた。しかしそれもまた今の自分の体には毒だ。何事も体が資本の為、まずは体調を整えることが先決である。
だからこそ毎日規則正しい生活をしてリラックスする時間を設け、かつストレスを溜めない為に他人との交流を出来るだけ避けるよう心掛けてきたのだ。
もちろん二人共が将来に向けた取り組みを少しずつ行っているし、夫婦なのだから会話もしている。体調によっては昼寝をする日もあった。そうしたマイペースな引き籠り生活を送っていたら、コロナ禍により二人のライフスタイルが時代に即してきただけだ。
このマンションに住み始めた当初、他人の目が多少気になってはいた。その為外出する際、夏の暑い時以外マスクをするのが当たり前だった。それも今は皆がし始め、また外でも距離感が近い人は少なくなり、店の中で子供連れが騒ぐ人も減少した。さらに所在なげにうろつく人も以前よりは少なくなっている。
新型コロナは怖いけれど、こうした世の中になって有難いと思う部分が多少なりともあったというのが嘘偽りのない気持ちだ。元々働いていないので、コロナ禍による収入減少の被害もない。特別給付金を貰った時には、有難いけれど申し訳ないとさえ思ったほどだ。
マンションにおける住環境も九戸と少なく、二〇二の賃貸物件以外は全て老人ばかりで静かだった。時折三階辺りから子供の奇声がうっすら聞こえるけれど、防音はしっかりしているからか余り気にならない。
分譲マンションならではの人付き合いも、基本的には隣の三〇二に住む八十歳になる
龍太郎が会社を辞め、ここに住み始めた事情を知る人達はかなり限られている。組合の理事会への出席等は香織に全て任せているので、龍太郎は他の住民とほとんど接する機会がないからだろう。
もしかすると知らない所で噂を立てられ、皆の耳に入っている可能性はある。しかし言葉を交わす機会が無ければどっちだって同じだ。こちらが気にしなければ向こうから余計な話をする人もいない。
高収入を得ていた頃の生活からかけ離れてしまったのは確かだ。けれど今の方が人間らしい暮らしをしていると感じていた。それに今更後悔などしても仕方がない。人間なるようにしかならないのだ。
それに先を心配し過ぎても、それまで生きているかなんて保証は誰だってない。実際に両親は六十八歳の若さで突然この世を去ってしまった。姉に至ってはまだ四十歳だった。香織の両親も共に七十三歳で亡くなっている。
人生百年の時代に入ったと言われているが、このコロナ禍だ。今年四十五歳になる龍太郎達だって、明日にでも死ぬ可能性は決して低くない。
だったら今が人生の折り返し地点と考えても、今後は自分が好きだと思えることをし、楽しいと感じられる生き方をしたかった。
そう考えると、息苦しい世の中で腹立たしい話題も多いと言われるご時世だが、どちらかといえば今は自由で気楽に健やかで、落ち着いた毎日を過ごせているのかもしれない。
そんな事を考えながら、龍太郎はいつの間にか深い眠りについていた。まさか明日からこの安息の日々が崩壊の危機に脅かされるなど、夢にも思っていなかったからである。
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