第29話 行動~4

 これまでの献立は、二人が結婚する前に龍太郎の世話をしてくれた香織と彼女の母親とが作っていた料理が主だ。季節にもよるが、副菜でひじきや小松菜を使ったり、イワシをショウガで煮たものや豆腐なども定期的に食べたりしている。

 そこから食生活についての記載に目を向けた。魚はビタミンやミネラル、カルシウムなどの栄養素が豊富で是非摂取すべきだという。

 ただメカジキやキンメダイは、水銀の蓄積が多いので週二回までとある。とはいってもキンメダイなどは高くてまず食卓に上らないし、メカジキはたまに食べるが月一回か多くて二回程度だから、それほど気にしなくていいだろう。

 添加物や農薬に関しても、母親の食べたものが赤ちゃんに吸収される可能性を考えると、できるだけ含まれていない食品がベターのようだ。農薬はそこまで気を遣っていないが、添加物の少ないものは日頃から選んでいるから、これも問題ないと思われる。

 また五大アレルゲン食材と言われる卵、牛乳、小麦、落花生、蕎麦をはじめ、フルーツや肉類、貝類など食物アレルギーになりやすい食品ばかりを食べていると、赤ちゃんがアレルギー体質になる可能性もあるのでバランスが大切だとあった。

 二人共アレルギーは無いが、全て取り過ぎと言うほど偏った食事はしていない。よってこれもクリアしている。

 さらにはほどよい柔らかさの量の便を作り、腸内環境を整える食物繊維を一日二十から二十五グラムを目標に摂った方が良いらしい。切り干し大根一〇〇グラム程度がこれに当たるという。特に寒天やところてん、海藻類、ナタデココなど水溶性の食べ物がお勧めのようだ。

 これも香織がやや便秘気味なので、海藻類や切り干し大根はよく食卓に出る。妊婦の目標に達しているかどうか微妙だが、それほど神経質になる必要は無いだろう。

 ヨーグルトも良いらしい。乳酸菌などの善玉菌を増やし、腸内環境を良くするからだ。それにカフェインは血管を圧縮させるため、赤ちゃんへの栄養や酸素の供給に支障があるので、飲むならほうじ茶や麦茶が良いとされていた。この点も二人の食生活で取り入れているものだ。よって改めて気にしなくてよさそうだった。

 妊娠中で特に気を付けなければいけないのは、塩分とエネルギーのようだ。妊娠高血圧症候群や妊娠糖尿病になると、出産に大きく影響を及ぼすという。

 他には便秘や痔になりやすいので注意が必要だとか、虫歯や歯周病が酷くなりがちなので妊娠初期から中期のうちに治療が必要らしい。

 そこまでの記載項目では、これまで続けてきた龍太郎達の生活リズムを維持していれば、朱音にとってもほぼ良いと分かり気が楽になった。

 しかし問題が一点だけある。それは適度な運動だ。腸の動きを刺激する為にも、毎日ウォーキングなどで体を動かす必要があるという。これは今の彼女にとって無理難題だった。

 他にもストレッチやヨガ、マタニティビクスやスイミングも良いという。スイミングは無理だが、その他ならスマホ等で動画を検索して部屋の中で試すことは可能だろう。

 けれど最も効果的なのは龍太郎達も意識しているように、ある程度の距離を歩く事だ。足腰の筋肉を付けるだけでなく、血行も良くする最もシンプルだが効果的な運動である。

 番外編だと旦那さんの浮気が注意だとか、できるだけスキンシップを心掛ける等といったものもあったが、これは最初から諦めるしかない。相手が秘密だし接触も叶わないのだから完全にお手上げだ。

 そう考えると運動面だけでもなんとかならないか。そう思い龍太郎は香織に言った。

「ルームランナーを買おうか。ネットで注文すれば数日で届くだろう。逮捕状が出たらどうしようもないけど、朱音さんがいなくなった場合は俺達で使えばいい」

「そういえば、前にもそんな話をしたことがあったね。龍太郎の体調が良くなってきたから、なんとなく立ち消えになっちゃったけど」

 龍太郎が会社を辞めこの部屋に引っ越して来た後、疲れが出たのか買い物に出かける事すら億劫になっていた。それを心配した香織達が、食事の用意などをしてくれるようになったのだ。

 その際、散歩に出歩くのが難しいのならルームランナーを購入して、気が向いた時に部屋の中で歩くようにすればいいのではないか、と一時本気で考えていたのである。

 というのも会社にいた頃など休職していた際、一回目も二回目の時もよく散歩をしていた。けれどこのマンションに戻ってから、外出は気が進まなくなったからだ。

 体調を回復させる手段として、ウォーキングはとても有効だと理解していた。だがそれ以上に周囲の目を気にしてしまったからだろう。

 以前いた社宅と違い、ここには昔の龍太郎を知る人達が多くいたので余計だった。近所を歩けば、昔の馴染みの同級生やその親と出会うかもしれない。それが面倒に感じたのだ。つい他人がどう見ているか意識してしまう環境に、自分でも戸惑っていたのである。

 今でこそ関係ないと開き直り、自分達が良いと思う生活を過ごすようにしているが、当時はそこまでの境地に至らなかった。よって外に出るにはそれなりに勇気がいったのだ。

 厳密に言えば引き籠りとは違うと思っていたけれど、人から見れば区別などつかない。そうした考えが散歩や買い物に出る気分を阻害していた。

 それを察した香織は、ルームランナーがあればいいねとある時提案したのだ。それを聞いて良い考えだと思い、早速ネットでどういう種類のものがあるのか調べたことがある。 

 当時家庭用の場合、下は一万円台から上は四十万円台以上と相当な幅があると知った。経済的な問題もあったが、どれがいいのか決めきれないで結局購入せず今に至っている。 

 体調がすぐれない時は脳の働きも悪い。何かを決断するという作業が、とても億劫おっくうに感じたからだろう。そうして先延ばしにしている内、段々外へ出られる気力が戻り歩くようになった。その為ルームランナーはもう必要ないと判断したのだ。 

 しかし香織と結婚をしてコロナ禍になるまでは、週二回の食料品の買い出しに加え、月一回から三回は本屋に寄ったついでにランチをしたり、衣服や電化製品、雑貨などを買う為に出かけたりしていた。

 それがここ一年半以上は、医療費の負担を抑える自立支援医療受給者証の年一回の更新手続きや市民税県民税申告書の提出の為に区役所へ出かけたり、春と秋はクリーニングに行ったり、年四回のペースで散髪に出かける等、必要最低限の外出しかほぼしなくなった。

 本屋もほとんどネットで購入するようになったし、ランチもテイクアウト以外は利用していない。よって歩行距離が短くなり運動不足になりがちな点は、龍太郎達もやや気になっていた。

 国民のワクチン接種率が全体の八割を超えるようになれば、完全には無理にしても以前のような生活に多少近づけるかもしれない。年末年始に人の動きが活発になり始める頃、再び来るだろうと予想されている第六波がどの程度で治まるか。

 その状況によって今後の生活を以前のように少しずつ戻すか、それともこれまでと同じく感染予防を第一に考え行動するかが決まってくるだろう。だからもう少しの辛抱なのだ。 

 けれど朱音の健康を考慮すれば、買うなら早い方がいい。そこで久しぶりにネット検索をしてみた。今売れ筋の商品は四万円台のようだ。早ければ明日出荷され、明後日には届くものもある。これがあれば彼女の運動不足の解消に役立つだろう。

 例えその後に彼女が出頭する事態となっても、龍太郎達が使えばいい。コロナ禍が完全に治まるまであと一、二年かかるという専門家もいるくらいだ。外出する日以外でも歩く習慣を付ければ、体調の回復や社会復帰する為の体力作りにだって役立つ。

 香織と相談しながら購入を決めた二人は、どれが良いかを真剣に選び始めた。すると隣室から朱音が出てきて声を掛けてきた。

「すみません。ちょっといいですか」

 二人は振り向き頷くと、彼女が話を続けた。

「事務所にネット通話で話をしたいと告げた所、是非そうして欲しいと返信がありました。やはり顔を見て本当に無事なのか、元気なのかを知りたいそうです」

「DMで連絡を取り合っている件を、警察に告げている気配はありましたか」

龍太郎が尋ねると彼女は首を振った。

「確証はありませんけど、今は隠し通しているようです。DMだけが私と繋がる唯一の接点ですし、警察も確認しようがないからだとも言っています。それに龍太郎さんが言っていたように、正式な逮捕状が出るまではあくまで重要参考人なので、今の内ならもし後でばれても事務所の責任問題にならないと判断しているようです。顧問弁護士に相談し、そう結論づけたと書いてありました」

「弁護士には告げたのですね。最初は社長とマネージャーしか知らないはずでしたが」

「止むを得なかったので、その点は申し訳ないと謝っていました。けれど守秘義務もあるから、絶対に口外する心配はないそうです。ただもし逮捕状が出た場合、直ぐに連絡が欲しいと言っています。過去の例から、弁護士を通じて出頭すると連絡した方がいいと忠告されたのでしょう」

 その決断は間違っていないと思われる。弁護士にだけ打ち明けた上で、警察へは告げていないとの説明も説得力があった。それに騒動からまだ二日しか経っておらず無事でいると分かった今の段階で、警察に密告する理由もないはずだ。

 あるとすれば警察の強い圧力に屈したか、事務所の体裁を第一に考えた場合だろう。しかし彼女の説明によれば、そうした心配は無さそうに思える。

 それでも念の為に聞いてみた。

「警察の捜査状況について何か言っていましたか」

「ホテルで現場の様子を一番近くで見ていた野垣が何度も呼び出され、事情聴取を受けているようです。同じ質問を繰り返されてうんざりしていると愚痴を書いていましたが、少し気になる事を聞かれたようです」

「どういった内容ですか」

「一緒にいた柳畑の秘書の行動についての質問も、くどいほどされたと書いてありました」

 朱音からホテルでの状況を説明された際、彼女と柳畑が二人きりになった非常口から最も近い場所にいたのはその二人だと聞いている。よって彼らは騒動が起こる直前までの経緯を最も知る人物だと警察も考え、齟齬そごが無いかを確認しているに違いない。  

 また朱音が去った後、非常口に向かったのは秘書とホテルの従業員だと、野垣からDMで告げられていたはずだ。彼はその後に何か起こったらしいと気付き駆け寄ったらしい。

 もしかすると、秘書が疑われているのではないかとも思った。だがその可能性は低いだろう。DMによれば秘書の後をホテルの従業員がついて行き、それから階段の下に転落している柳畑を発見している。その二人にどれだけのタイムラグがあったかは不確かだけれど、それほど時間差は無かったと野垣が言っているからだ。

 それなら秘書が柳畑を突き落とした可能性より、偶然非常階段に第三の人物がいて朱音の去った後、柳畑を突き落とした確率の方が高いのではないか。

 そう推理し詳しく聞こうとしたところで、彼女が表情を険しくして言った。

「それとさらに厄介な事態が起きそうだと忠告をされました。どうやらマスコミが名古屋へ逃げたという情報を仕入れ、こっちに向かっているようです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る