第26話 轢かれた水溜り

 ようやくわかった。


 弥勒は照りつける太陽から逃れるように日陰で待機し、A4サイズの茶封筒を片手に持ってあるマンションのエントランスを見張っていた。


 今週に入ってすでに三日有給休暇を取得して本日は水曜日。まだ明るいが太陽は傾いて、腕時計はすでに午後七時を指している。


 ストーカー被害に遭っている人は泣き寝入りするしかないことが多い。


 その理由は、実害がない限り警察は動かないから。さらに確たる証拠がないと不起訴となるリスクがあることで重い腰を上げない。


 ならば、誰かに見られているかもしれない恐怖の中でずっと耐えなければならないのか。


 そんなはずはない。


 弥勒はあるツテを辿ってSNSにあった人物の正体を調べてもらった。そして、本日午前になってやっとその成果が出た。


 あとはこれを本人に突きつけるだけでいい。すでに勝負はついている。陽世と心晴に平穏な生活が戻るはずだ。


 すでに二時間ほどこの場所でエントランスを見張っているが、さすがに真夏に張り込みをするのは体力的に厳しかった。


 茅ヶ崎と山下のように炎天下でも走り回っている刑事は偉大だと実感した。


 植物が並ぶ縁石に置いてあるペットボトルを取ってキャップを回し、スポーツドリンクを喉に流し込む。


 買ったときは冷えていたそれは、長いものに巻かれるように温くなってしまった。


 上を見ていた視線を落とすと、マンションに向かう男が見えた。高級そうなスーツや磨かれた革靴、まるで自分はエリートだと自慢するように堂々と歩くその男は、これから化けの皮を剥がされることを知らない。


 弥勒は日陰を飛び出してエントランスの扉を開けようとする男の背後に立った。



 「木闇きやみさん。お世話になっております」



 振り返った男は明らかな動揺を見せて、目を見開いた。



 「あれ、お忘れですか? ロイヤルキャピタルの法月です」


 「どうして・・・」



 中年のビジネスマンは、あの日谷垣に罵声を浴びせたときとはまるで違う表情をした。


 それはそうだろう。今回は自分が追い詰められたと理解したのだ。



 「単刀直入に訊きます。あなたですよね? 俺の部下のマンションで騒いで殺害予告の紙を郵便受けに投函したのは。さらに、大切な取引先の女性にカラーボールをぶつけた。あのときの逆恨みですか?」



 弥勒が笑顔で淡々と話し続ける姿を見ている木闇は、顔を痙攣ひきつらせる。


 弥勒は手に持っている茶封筒を木闇に投げると、それは地面に落ちた。


 弥勒は「ここではなんですので、場所を変えましょうか」と伝えて歩き出した。


 木闇は急いで封筒を拾って中の資料を取り出した。そこに書かれている内容に彼は眉間に皺を寄せて、駆け足で弥勒の背中を追う。


 歩道に通行人がいるものの、狭い通路に入れば、奥には行き止まりのフェンスがあった。過ぎ去って行く人たちは、他人の話になど興味を持たない。



 「木闇つよし、三十八歳。都杜みやこのもり建材株式会社営業部主任」



 これから彼は、纏っていた鎧をすべて剥がすことになる。完全に無防備になった兵士に待ち受けるのは死だ。



 「東京大学卒業で年収は二千万円と仰ってましたね?」


 「黙れ」


 「本当はどこの大学だったかな。聞いたこともない名前だから、えーっとなんでしたっけ? まあいいや。地方のFランというやつでしょうか。俺のデータから推測すると、木闇さんの本当の年収は五百万円前後、くらいですか?」


 「黙れ!」



 顔を紅潮させて怒りを露わにする木闇を前にしても、弥勒は冷静に微笑んだ。


 この反応は想定通りだ。もっと怒ってもらわないと。



 「木闇さんの会社の人事に話を聞いたところ、あなたは東京大学出身だと偽装して入社していた。経歴詐称はいけません。あと、これまでの職歴も本当かどうか疑わしいですね。そこまで調べていないのでわかりませんが」


 「まさか・・・」


 「すべて報告しました。あなたがどう処分されるか、見ものですね」



 木闇は顔を真っ青にして手に持っていた書類を地面にばら撒いた。


 茫然自失という言葉を体現した彼は、すべてを諦めたらしい。



 「喧嘩を売る相手が悪かったんですよ。学歴や年収だけが人の価値じゃない。安い給料でそれだけのスーツと革靴、腕時計を揃えるのは大変だったでしょう。身の丈に合った生活をした方がいい。今のあなたは、あなたがこれまで見下してきた人たちより惨めだ」



 弥勒はそう言い残すと、通路を出て通りの歩道に姿を現した。


 これで、終わった。


 俺を尾行するくらいなら我慢できた。陽世を怖がらせたことも、まだギリギリ理性を保つことができた。


 だが、絶対にやってはいけないことを木闇はしてしまった。それだけは、どうしても許せなかった。


 そう思っていたら、後方から雄叫びのような怒号が飛んできた。それは、弥勒の背中に刺さって、胸から地面に押し倒された。



 「お前みたいな若造が、生意気なんだよ! 俺を馬鹿にしやがって!」



 木闇は弥勒の顔を踏みつけ、腹を蹴り、馬乗りになって顔を殴った。


 周囲の通行人は悲鳴を上げて逃げて行き、誰も助けようとしない。


 誰か警察に通報してくれただろうか。


 後頭部に鈍痛が走ったとき、やっと男性が数人がかりで木闇を取り押さえてくれたらしい。


 麻痺で痛みを感じないほどにダメージを受けた弥勒は、「大丈夫ですか?」「救急車呼んで!」と騒いでいる言葉をなんとか理解することができた。


 危険に巻き込まれてでも助けてくれる人がいるこの場所は、案外捨てたものじゃないのかもしれない。


 けたたましいサイレンが建物の壁に反響して、パトカーが到着し、数分遅れて救急車がやって来た。


 救急隊員に話しかけられている声が、何を意味しているのかわからないままに頷いて答え、視界は次第に暗くなっていく。


 今週いっぱいは有給休暇を消費することになりそうだ。


 救急車の中で、弥勒は眠りについた。


 木闇の情報を得るために、ここ数日ほとんど眠っていなかった。やっとゆっくりできる。


 眠りについた弥勒は夢の中で、亜希に怒鳴られ、陽世に説教され、古宮に励まされ、心晴に泣かれるのだった。

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