第19話 気圧の谷

 月曜日の定時、心晴は一日中弥勒のことばかり考えていた。


 連絡をしようにも金曜日の最後の別れ方から彼はもう私に会いたくないのではないだろうかと考えてしまい、メッセージを書きかけては削除を繰り返した。



 「さて、帰ろうか」


 「はい、帰りましょう」


 「この後の予定は?」



 最近古宮がよく心晴の予定を確認しようとする。


 彼とは以前から食事に行く仲だったが、ここまで頻繁に予定を確認されることはなかった。



 「今日は大切な友人と食事に。滅多に会えないので、楽しみです」


 「そっか。充実してるんだね。たまには僕ともご飯行ってよ」


 「近いうちに」


 「そうやってうまく避けられてるような気がする」


 「いや、避けてませんよ」


 「じゃあ、明日は行ける?」


 「特に予定はないですけど」


 「なら明日ね。決定!」



 強引に決められてしまったが、古宮は先輩であれど気を遣うことがない関係だ。一緒に食事をすることに抵抗はない。


 「わかりました。明日、行きましょう」と伝えて心晴は会社を出発した。目指す場所はいつものお店だ。


 完全個室の和食屋。一緒に食事をする相手が有名人なので、あまりオープンな場所だと周囲の視線が気になって落ち着かない。


 特にプライベートを探る週刊誌の記者などが張っていることもあるので、異性とふたりきりで出掛けることは事務所から禁止されているとか。


 心晴に迷惑がかからないように、彼女とはいつも別々にお店に入って中で待ち合わせをすることにしている。


 友人との食事でさえ記事になることがある世の中だ。SNSだっていつ写真を撮られて全世界に発信されるかわからない。


 電車に乗って最寄り駅まで移動してそこから数分歩くと、プライバシーが完全に守られる個室の料理屋がある。お値段もそれなりだが彼女と会うためならそれくらいは痛くない。


 わけではないが、この出費は固定費みたいなものだと考えている。


 いつも通り店に入ると従業員に名前を伝える。すると、彼女がいる個室まで案内してくれる。


 扉を開けて四人用の個室に入ると、美しい女性が座って待っていた。


 まさか私が有名な女優と食事をする仲だと知る人は誰もいない。


 古宮が会いたがっていた存在が、私の目の前にいるのだ。



 「お待たせ」


 「待ってないよ。久しぶりだね」



 風早七海、本名を滝沢七海という彼女は、高校時代からの親友であり、同じ大学に進学した。大学に入学した当初はまさか彼女が芸能界に進むとは思っていなかったけれど、高校一の美女として有名だったし、大学でもミスグランプリに輝いた。



 「映画観たよ。すごくよかった」


 「ありがと。私が演じた役、なんだか心晴に似てなかった? 学生の頃に別れた彼と大人になって再会して、結ばれる話」


 「まあ、再会したところまではね」


 「これから結ばれるかもしれないでしょ」



 七海が演じた映画の主人公は、高校時代に交際していた彼とある理由で別れることになった。しかし、それから十年経って偶然再会したふたりは、次第に若い頃の気持ちを取り戻していき、結ばれる。


 心晴と弥勒の境遇に似ている。まだ結ばれてはいないし、その可能性は極めて低いかもしれないけれど。



 「無理だと思う」


 「何? この前のこと気にしてるの?」



 心晴は弥勒とのことをすべて七海に打ち明けていた。


 一緒に食事をした後、突然彼がその場を去ってしまったことを。それは、高校生の頃心晴が彼にしてしまったことと同じで、彼はあのときのことを恨んでいて同じ気持ちにさせようとしたのだと。



 「法月くんはそんなに小さい男じゃないと思うけどなあ。本当に急用ができたのかもしれないじゃない?」


 「でも、電話があったわけでも、スマホのメッセージを見たわけでもなかったし。仕事が終わって、時間はあるって言ってたんだよ?」



 彼は心晴と別れる直前まで時間はあると言っていた。それが、突然急用ができたと立ち去ったのだ。


 そのときの彼はどこか違う場所を見ていた。



 「心晴はいつも悪い方向にしか考えられない性格だから、私がどれだけ励ましても余計にマイナス思考になるだけ。だから、もう何も言わない」


 「ごめん」


 「別に責めてないよ。不安になるだけ法月くんのことがまだ好きなんでしょ」



 どうでもいい相手ならそこまで気に病むことはない。


 七海は物事をいい方向に考える性格で、思い悩むくらいなら行動に移してしまうタイプだが、親友の心晴は悩んでは立ち止まり、歩き出してはまた考えるタイプだった。



 「後悔しないようにだけ気をつけてね。十年前のこと、ずっと心残りだったんでしょ?」



 卒業式の日に弥勒にしてしまったことは今でも悔やんでいる。あのときの自分にアドバイスができるなら、彼の前で泣いてしまってもいいから、ちゃんと別れの挨拶をするように伝えたい。


 結果がどうであれ、気持ちに正直に生きていたかった。



 「うん、大丈夫。うまくいかなくても、思い残すことはないようにする」


 「そうそう。それでこそ私の親友だよ。付き合うことになったら、私にも会わせてよ?」


 「あー、そのポジティブがほしい」



 私は芸能界では生き残れないだろうな。


 有名になればなるほど、周囲からチヤホヤされることが増えるのと同様に、厳しい言葉を向けられることも増える。ネット上に自分の悪口があると考えるだけで怖くなる。



 「例の先輩とは、たまにご飯行ってるの?」


 「古宮さん? 誘われることはよくある」


 「古宮先輩は心晴のことを狙ってるんじゃない?」


 「ないでしょ。お兄ちゃんみたいなもんだよ」


 「向こうは妹とは思ってないかもよ」



 考えたことはなかった。


 面倒見のいい先輩で、本社に配属になって彼から仕事を学んできた。現在抱えている案件では、パートナーとして取り組んでいる。


 目の前にいる親友に個人的なお願いができたらどれだけ楽だろう。会社の人に七海との関係を話していなくて本当によかった。


 プライベートの関係にビジネスを持ち込みたくはない。



 「そのうち告白されるかもよ? どうする?」


 「ないない」



 七海に変なことを聞かされたせいで、心晴の中にいる古宮の印象が少なからず変わってしまった。


 彼はただの先輩であり、ビジネスの関係。


 彼もきっと、同じ気持ちだろう。


 この時間は弥勒も古宮も忘れて、七海との食事を楽しもう。

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