篠突雨

第18話 ゲリラ豪雨

 週が明けた月曜日の朝、弥勒は亜希に呼ばれて代表取締役室を訪ねた。まだ始業前だというのに、陽世もソファに座っていた。



 「どうしたの?」



 空気が重い。


 亜希は真剣な表情で陽世の隣に座っていて、部屋に入って来た弥勒を見つめた。陽世はひどく疲れているようで顔色が悪く、足元を見ている。



 「朝早く陽世から連絡があってね。助けてほしいって」


 「何があったの?」


 「部屋の前に男がいてドアを叩かれたり、郵便受けにこんな紙を入れらたんだって」



 亜希が差し出した紙はA4サイズのコピー用紙で、小さな『殺す』の文字が紙いっぱいに印刷されていた。


 部屋の前に男がいて、扉を叩かれながらこんな紙を見せられては、女の子ひとりでは怖い思いをしたことだろう。


 弥勒がその用紙を見ただけでも気持ち悪かった。



 「泣きながら電話してきたからびっくりして、近隣の住民が警察を呼んで私も陽世の部屋まで行ったんだけど、もう男はいなくて」


 「ストーカーか?」



 何かしらの理由で陽世に恨みを持っているのかもしれない。仕事で恨みを持たれることは、この業界ではたまにある。


 経営が苦しくなった企業に依頼を受けても再建が不可能なレベルであれば、廃業を勧めることがあり、そのせいで逆恨みをされることもあるのだ。


 特に亜希は冷静すぎるが故に事業の立て直しが難しい状況で買収して軌道に乗せて売却することも何度かあった。それは、熱い思いで築き上げてきた会社を奪われるのと同時に、お前は無能だから失敗したのだと烙印を押されるようなものだ。


 現に亜希も脅迫をされた経験はあるが、彼女は人脈が広く自分で解決してしまうし、そんなもので怯える性格ではない。


 だが、陽世はまだ駆け出しで買収をしたこともないし、むしろ取引先にはその明るい性格で気に入られることがほとんどだ。



 「先週の木曜日の帰り、誰かにつけられてるような変な感じがしたんです。怖くて急いで部屋に帰って、それで部屋の場所が知られたのかも・・・」


 「警察には?」


 「知り合いに相談はしてあるから動いてくれるとは思うけど、当分は危険だから私の部屋にいてもらうつもり」



 木曜日にそんなことがあったのなら、金曜日に相談してくれればよかったのに。そのときはこんなことになるとは思っていなかったのかもしれないし、他人に心配をさせないように黙っていたのかもしれない。



 「とりあえず、ひとりで外回りは禁止。出るときは常に弥勒が一緒に行くから。オンラインで済む打ち合わせなら外に出ないようにしてね」


 「はい、ありがとうございます」


 「弥勒、仕事中は陽世のこと頼むわね。それ以外の時間は私の部屋にいてもらうから」


 「わかった」



 その後、弥勒は亜希とふたりで話したいからと陽世にオフィスで待つように伝えた。


 いつもうるさいくらいに明るい彼女がここまで落ち込むところをはじめて見た。



 「先週の金曜日、俺も誰かにつけられてた感じがしてさ」


 「弥勒も? 陽世の件と無関係じゃなさそうね」


 「とはいえ、仕事の恨みではないと思うんだよな。陽世ちゃんが担当を持った最初の案件がシエルなわけだし、別に恨まれるようなことは何もない」


 「そうよね」



 金曜日に心晴と食事を終えたあのとき、遠くに誰かの姿が見えた。男だったが、間違いなくこちらをずっと見ていた。


 顔が見えないように帽子を深く被ってマスクをしていたから、怪しいことはすぐにわかった。


 だから、心晴を巻き込みたくなくてすぐにその場所を離れた。彼女に迷惑をかけるわけにはいかなかったから。


 話を終えた弥勒はオフィスに戻ったが、デスクに陽世の姿はなかった。


 すぐ近くで業務をしていた社員に陽世の行方を知らないか訊ねた。



 「陽世ちゃん知らない?」


 「さっき出て行きましたよ。飲み物でも買いに出たんじゃないですか?」


 「ありがとう」



 ビルから出ることはないだろうが、あんな話があった後だ。


 弥勒は自動販売機を目指して廊下を進むと、すぐに彼女の姿を見つけた。そのそばには、彼女と話す男の姿があった。


 褪せた薄緑の作業着、このビルに入っている清掃会社の清掃員だった。



 「陽世ちゃん」


 「弥勒さん、すみません。喉渇いちゃって」


 「いや、いいんだけどさ」



 弥勒は陽世のそばまで歩みを進めて清掃員の若い男を見た。



 「先日はありがとうございました」


 「ああ、あのときの」



 頭を白いタオルで巻いている細身の彼は、先日バケツの件で中年のビジネスマンから罵声を浴びせられていた青年だった。


 あの出来事がきっかけでふたりは時折話す仲になったらしい。



 「私、飲み物買って戻ります。ビルからは出ないので大丈夫です」



 陽世は付いて行こうとする弥勒に元気のない微笑みを向けて廊下を進んで行った。



 「あの、何かあったんですか? いつもより元気がないような」


 「いや、まあちょっと。体調が優れないみたいで。すぐに元気になりますよ」


 「そうですか」



 なぜか彼は嬉しそうだった。


 この話を聞いて笑う要素はないはずだが、彼はわずかに口角を上げた。



 「仕事があるので、失礼します」



 弥勒の視線に気づいた彼は逃げるように廊下を去った。


 とりあえず弥勒はオフィスに戻らず、陽世の帰りを廊下で待つことにした。


 仮にあの清掃員が犯人だとしても、俺たちは彼を助けた人間だ。恨まれるようなことはないと思うが。


 心晴にも失礼なことをした。変な男がいるから、と言うわけにもいかず。


 咄嗟に下の名前で呼びかけたことも、弥勒を焦らせた要因のひとつだった。


 彼女とあの後一緒にいたら、高校の同級生だったことを打ち明けられたのだろうか。


 そうなっていたら、どう反応していいかわからなかった。


 ジャケットの内ポケットからスマホを出してメッセージを確認したが、彼女との最後のメッセージは金曜日に週末の予定を訊かれたところで終わっている。


 あんな別れ方をしたら、彼女から連絡なんて来ないよな。


 そんなことを考えていると、陽世がドリンクを片手に戻って来た。



 「待っててくれたんですか? ありがとうございます」


 「ちょっと電話してただけだよ」



 ふたりはオフィスに戻った。

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