第17話 のち雨
今週は長かった。そして、梅雨は明けた。
それなのに、気分は天気と違って晴れることはなかった。
金曜日の夕方、心晴は一週間がようやく終わると深呼吸をして安堵した。特別忙しかったわけじゃない。自らに科せられた重大なプロジェクトについて常に頭を捻った。
結局いい案は思いつかず、ロイヤルキャピタルからの提案もないままに一週間が終わった。
弥勒にお礼をしたいという名目で連絡を取ったが、平日は時間が作れないと返事をもらい、早く一週間が終わることを望んだのだ。
明日、明後日の二日間は予定を入れずに完全フリーにしておいた。彼の都合に合わせるために。
しかし、金曜日になっても彼の返事は素っ気なく、まだわからないの繰り返しだった。彼は特殊な仕事をしていて、あの年齢で統括本部長の職に就いているからだと自分を納得させた。
決して私と会いたくないわけじゃない。
「明日、明後日の予定はいかがでしょうか」
金曜日の夕方であれば、週末の予定は決まっているかもしれない。心晴は弥勒宛のメッセージを送信する。
期待してがっかりしたくないけれど、期待せずにいられない。
それから退勤の時間まで返事はなかった。
心晴が帰ろうとすると、「天白さん、金曜だしご飯でもどう?」と隣のデスクで仕事を終えた古宮からお誘いを受けた。
「えーっと・・・」
「何か用事あるの?」
「そうじゃないんですけど」
「もしかして法月さん?」
「いえ、違いますよ。なかなか予定が合わなくて」
「そっか。法月さんと会うなら、僕も一緒に行きたいと思ったんだけど」
それは困る。
私は彼に伝えたいことがある。そのせいで、彼がもし私と距離を置こうとしても、後悔はしたくない。あの卒業式の日のように。
「今日は別件ですから」
「じゃあ、また今度だね。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
古宮は名残惜しそうに退社した。
嘘をついたことは申し訳ないが、今日もし弥勒が時間を作れるのなら、古宮と食事に行くことを後悔することになる。
スマホを確認してもメッセージはなかった。
やっぱり、駄目なのかな。
と、ため息をついたときに電話がかかってきた。その相手は、弥勒だった。
「は、はい。天白心晴です」
プチパニックを起こした心晴はフルネームで名乗った。
『法月です。今少しお話できますか?』
「できます、です」
『以前から誘ってもらっているお礼の件ですが、本日天白さんのご予定はいかがでしょう? 突然になりますが、仕事が早く終わりまして』
「空いてます! ぜひ!」
古宮の誘いを断っておいてよかったと思うのと同時に、罪悪感を覚えた。これでは本当に先輩を騙したことになってしまう。
『場所はどうしましょうか?』
「おすすめのお店がありまして・・・」と言葉にして後悔した。リーズナブルで若者に人気のお店だが、前回の高級レストランを思うとあまりに庶民的すぎる。
彼ほどのハイクラスが好む場所とは到底思えない。
『では、そこにしましょう。場所はどちらですか?』
もう撤回はできなかった。
心晴は弥勒にお店の場所を伝えると、店前で待ち合わせをすることになった。電話を終えた心晴は小走りでエレベーターに向かい、有楽町駅から電車に乗り込んだ。
店が見え、順番待ちをする行列が目に入った。この時間から混むことも知っていたはずなのに、どうして提案してしまったのだろう。
「天白さん」
「はい!」
行列の中にいた彼の存在に気づかずに、驚きの声を上げてしまった。スタイリッシュなジャケットを着た弥勒がバッグを右肩にかけて立っている。
「すみません。誘っておいて順番待ちをさせてしまって」
「いいえ。そもそもお礼してもらうほどのことじゃないですし、誘ってもらえて嬉しかったですよ」
心晴の目を見て微笑む彼の無邪気な表情は、十年経っても褪せることなく彼女の心を揺さぶった。
「蓮見から風早七海さんの契約の話を聞きましたが、あれから何かいい案は出ましたか?」
「まったくです。そもそも無理があるんですよ。コンサルのプロが無理だって言ってるのに・・・」
「大変なんですね」
「ごめんなさい。愚痴を言ってしまって」
「今はプライベートですから。気にしなくていいですよ」
十五分ほどでふたりの順番が巡ってきた。
店内は照明で明るく、オープンなスタイルだ。運よく案内された席が奥の壁際だったので、話がしやすい環境だった。
心晴はメニューを開いて弥勒に差し出した。
今日は彼へのお礼の食事。楽しんでもらいたい。
「法月さんが普段行かれてるようなお店とは違うかもしれませんが、味は保証します」
「それじゃ、天白さんのおすすめのものを食べようかな」
「和牛のハンバーグが最高です。私はいつもこれです」
「同じもので」
注文を終えたふたりは、明るい雰囲気の中で話を続けた。すべてが仕事の話だったが、弥勒の仕事を知る機会になった。
彼のことはどんなことでも知りたい。
ハンバーグが運ばれてきて、弥勒が一口食べる。心晴が彼の反応を待っていると、「おいしい」とすぐに二口目を運んだ。
「お口に合ってよかったです」
心晴も一切れを口に運んだが、この味はすでに知っているし、何度食べても飽きが来ない。
食事を終えた後ゆっくり話したかったが、人気のお店に行列が尽きることはなかった。食事を終えたら早く出ないと迷惑になる。
伝票を持ってレジに向かった弥勒を「私が払わないとお礼にならない」と説得して会計を済ませ、ふたりは外に出た。
バーに行けばゆっくり話せるだろうが、弥勒はお酒が得意じゃない。どう口実をつけて、彼を帰さないようにするか悩んだ。
「本当においしかった。十分すぎるお礼をいただきました。ありがとうございます」
「とんでもないです」
「それでは、帰りましょうか」
「あの、少しだけ時間ありますか?」
「ええ、まあ」
「えーっと、お酒は苦手ですもんね。どうしよう・・・」
思考回路が筒抜けになっているが、彼は次の言葉を待っている。何か言わなければ。
「こは・・・。あ、いや、急用ができました。失礼します」
「え? 法月さん?」
弥勒は突然別れを告げて、心晴を置いてその場から去って行く。スマホに着信があったわけでもないのに。
高校卒業の日、私が彼にしたことはこれと同じだった。
悲しい。私の選択が彼をどれだけ傷つけたのだろう。
やはり彼は、私を覚えていた。これは、あのときの仕返しなのかな。
心晴の目の前を、一滴の雨粒が落ちた。
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