第16話 赤信号
弥勒がロイヤルキャピタルのオフィスに戻ったのは午後九時だった。
アポイントを取っていた取引先の担当者が急なトラブル対応で約束の時間に間に合わず、日程を変更してほしいと言われたのだが、本日のアポイントがその一件のみだった彼は待つことにした。
予定より遅れて開始した打ち合わせは、さらに予定より時間がかかるほどに話が盛り上がり、すべてを終えて戻ったらこの時間になってしまった。
代表の亜希はすでに退社しており、他の社員も全員いないと思った。
しかし、オフィスに設置されているセキュリティの機械はアンロックになっていて、まだ電気がついていた。
扉を開けてオフィスに入ると、デスクで陽世がノートパソコンに向かって何かを調べているようだった。
「陽世ちゃん、まだいたんだ」
「おかえりなさい。弥勒さんに相談があったんですけど、遅くなるなら帰ろうと思ってたら、結局調べものでこの時間になってしまいました」
「頑張りすぎもよくないよ?」
「わかってます」
陽世がこの時間まで残っていることは珍しい。仕事柄毎日定時で退社をすることは難しいが、それでも九時までの残業は稀だ。
「相談って、シエルのこと? 他の候補決まったの?」
「それが、風早七海に依頼したいと」
「うーん、どうしてこだわるんだろうね。確かに彼女と同等の宣伝効果が望める女優やモデルは簡単には見つからないだろうけどさ」
弥勒はタブレットをバッグから取り出して風早七海のSNSをチェックした。フォロワー数は五百五十万人、彼女が何かを投稿するたびに数十万件の反応がある。
インフルエンサーとしては申し分ない実績だ。彼女が広告塔になればアンジェの知名度が飛躍的に上がることは素人でもわかる。
だからこそ、それに比例して契約料が高く起用するハードルも高い。
彼女のSNSを遡ってみると、あるページに目が止まった。
全国展開しているコーヒー店の期間限定メニューのダブルチョコレートモカを写真に収めて、「すごくおいしい!」と絵文字を並べた投稿だった。
コメントを開くと、ファンから実際に飲んできたという報告がたくさんあり、「七海ちゃんの写真を見て飲みたくなりました」と書いてあるものがあった。
「これがあるか・・・」
「なんですか? 何か閃きました?」
「いや、なんでもない」
「待ってください。弥勒さんが呟いたときは何かを閃いたときなのはわかってます。教えてください」
弥勒の癖を見抜いている陽世が指摘していることは正解だ。
彼の脳裏をよぎった閃きは確かにあった。しかし、それを実現するためには超えなければならない壁がある。
そして、それを超える決断は今の弥勒にとって非常に難しいものだった。
「ごめん、やっぱり駄目だ。一瞬いけるかもって思ったけど」
「教えてくださいよ。駄目でもヒントになるかもしれないじゃないですか」
「いや、教えない。個人情報だから」
「意味がわかりません」
わからなくていい。
弥勒は「そろそろ帰ろう。明日も仕事だし」と陽世を急かせてオフィスの戸締りをはじめた。
彼女は、はぐらかされたことに納得がいかない様子を見せつつも、デスクを片づけて退勤の準備を進めた。
ふたりはオフィスを出ると、弥勒がセキュリティシステムをロックに変更してエレベーターに乗り込む。
「そういえば、古宮さんと天白さんが弥勒さんに謝ってましたよ」
「謝るのはこっちの方。亜希さんも困ったもんだ」
「近々弥勒さんにお礼をするとか」
「天白さんと連絡先を交換した。律儀だよね」
ロビーに到着したふたりはまっすぐ外へと出て、駅へと向かう。弥勒は電車に乗ることなく自宅までは徒歩なのだが、すでに暗いときは陽世を駅まで送ることにしている。
あくまで散歩のついでだ。最初は遠慮していた彼女も、今では当然のことのように弥勒に見送ってもらうようになった。
駅まで他愛もない話をして陽世が改札へ入るところまで見送ると、弥勒は来た道を戻った。
住んでいるマンションは会社から駅とは反対方向にある。結局また会社の前を通って反対方面へと移動することになる。
信号が赤に変わったので、弥勒はスマホを取り出した。すると、待受画面に新着メッセージが入っていた。
その相手は心晴で、着信したのは五分前だった。
『先日のお礼がしたいので、お食事でもいかがでしょうか』
弥勒はその文字を見て心が躍った。
彼女と最後にふたりで出掛けた場所は八景島シーパラダイスだった。そこで弥勒は彼女に、高校を卒業したらロンドンに移住することを告げた。
きっと伝え方に問題があったのだと思う。彼女はそれから俺と距離を置くようになった。
両親から当分ロンドンを拠点にすると聞き、一緒に暮らせるから来ないかと誘われた。
そして、俺にはどうしてもロンドンでやりたいことがあった。それは、世界最高基準の学習機関にその身を投じること。
だから、ロンドンに移住することに決めた。その後もロンドンで働くつもりで。
それを決めたタイミングが高校生であることを恨んだ。もし、俺がもっと大人だったら、彼女に付いて来てほしいと言えたのだろうか。
彼女にだってやりたいことはあっただろうし、英語が堪能じゃない状態で海外に移住する選択肢はなかったはずだ。
文化の違いのために海外で生きていくことに自信がなくても、自分が稼いでサポートすればきっとうまくいくとも考えた。
最終的に出した結論は、彼女の人生を自分の都合で奪うことはできない、だった。
進学校にいた彼女は大学への進学を考えていただろうし、結果的に興味があった業界で充実した毎日を送っている。
もう彼女のことは諦めた。なのに、どうしてまた出会ってしまったんだ。
「平日は難しいです。週末もどうなるかまだわかりません」
俺はそう返信した。
彼女はすぐに『わかりました。週末であれば私はいつでも大丈夫なので、また連絡します』と返事があった。
スマホから視線を上げて前を見ると、歩行者用の青信号が点滅していた。一度青に変わった信号がまた赤に変わった。
「今は進むべきじゃないってことか・・・」
弥勒は再び信号が青に変わるまで待つことにした。
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