第33話 雨にも負けず

 自由な日々がこんなに素晴らしいものだと実感したのは、不自由を経験したからだろうか。


 陽世は株式会社ロイヤルキャピタルが入る表参道のオフィスビルのエントランスからロビーを抜けてエレベーターホールに向かう。


 午前八時四十分、このビルに入る他の企業も九時始業が多いため、スーツを着たビジネスマンや、オフィスカジュアルを綺麗に纏った女性が同じ方向に歩く。


 今年の夏は大変だった。


 私の正義感が暴走したせいで、上司に迷惑をかけ、取引先の女性にまで怖い思いをさせてしまった。


 このビルの清掃員に差別的な言葉をかける中年の男を許すことができず、後先考えずに関わったせいで逆恨みされ、嫌がらせを受けることになった。


 迷惑をかけられた上司は、「陽世ちゃんは正しいことをしただけで、何も悪くない」と庇ってくれたが、当の本人はこの問題を解決するために暴行されて入院までしたのだ。


 反省せざるを得ない。


 下手をすれば、運命の赤い糸で結ばれたふたりの仲を引き裂くところだった。


 思い出してため息をついた。



 「蓮見さん、おはようございます」



 エレベーターが降りて来るのを待っていた陽世の耳に聞き慣れた声が届いた。



 「あ、谷垣くん。おはよう」



 細身で頭に白いタオルを巻いた若い青年は、緑の作業着を身につけて清掃道具が入ったワゴンを押して近づいて来る。


 この青年こそ、陽世が例の件で助けた青年だが、彼もまた正義感が強い男であったがために、元気のない陽世が気になってストーカーと間違われて警察に確保された。


 自らの行いを後悔し、このビルの清掃員をやめるとまで言っていたものの、悪気がなかったことは陽世がよく知っていた。結果、彼は今まで以上に仕事に邁進している。



 「最近元気そうね」


 「そうですか? ただ一生懸命仕事してるだけですよ」


 「いいことじゃない。また誰かに馬鹿にされたら私が怒ってあげる」


 「ありがとうございます。でも、本部長さんに怒られますよ」



 あれから陽世と谷垣は顔を合わせる度に話す仲になった。


 弥勒や亜希と一緒にいると妹のような陽世は、谷垣より二歳上なので、彼と話すときはフランクでいられる。


 乗る予定のエレベーターは行ってしまったが、始業までは時間があるので少しのお話なら問題ない。



 「蓮見さん」


 「どうしたの?」


 「もし、もしですよ。よかったらなんですけど・・・」


 「言いたいことは、ちゃんと伝えないと後悔するよ」



 そのせいで後悔している人はたくさんいる。きっと、弥勒もそのひとりだ。



 「一緒にお食事に行きませんか?」


 「食事かあ」


 「わかってます。蓮見さんみたいなエリートと僕じゃ格差があることは。でも、後悔したくないから」



 陽世は考えるふりをして、谷垣の反応を楽しんだ。我ながら意地悪だと思うが、歳下の彼をからかうこともまた、お姉さんの嗜みだ。



 「いいよ。行こうか」


 「本当に? 本当にいいんですか?」


 「その代わり、二度と格差なんて言葉使わないで。私は学歴や収入で人間性を判断するどこかのおじさんとは違うんだから」



 私はあんな人間になりたくない。


 誰にだって欠点はあるものだし、倫理的に許されない欠点は直すべきだ。だけど、その欠点も含めてその人なんだ。


 私は、ちょっとドジで可愛い女の子でいたい。



 「なんだ、そんな関係なのか。おふたりさん」



 陽世と谷垣が話しているところに弥勒がやって来た。ちょうど出勤でロビーを歩いていると、エレベーターの前で仲睦まじいふたりが視界に入った。



 「おはようございます。本部長さん」



 谷垣は弥勒をなぜか役職で呼ぶ。さすがに下の名前で呼ばれることはないだろうが、せめて法月と呼んでほしいものだ。



 「おはよう。陽世ちゃんのこと頼むよ、谷垣くん」


 「そんな、頼むだなんて」



 あまり女性と親しくしたことがない谷垣は、恋愛経験に乏しい弥勒ですら驚かされるほど初心うぶだった。



 「そろそろ時間だぞ」


 「またね、谷垣くん。食事の件は後で」


 「はい。お仕事頑張ってください」



 弥勒が扉が開いたエレベーターに乗り込むと、彼を追って陽世が滑り込む。ゆっくりと閉まる扉の向こうで谷垣は笑った。



 「彼は本当に真面目なんだな」


 「弟みたいな感じです」


 「弟か。可哀想に」


 「え、なんで可哀想なんですか?」



 谷垣が陽世に恋心を抱いていることは、傍目からも明らかなのだが、陽世もまた自らのことには鈍感だった。


 彼は清掃員をしている身分で高学歴な陽世と釣り合わないと思って遠慮している。


 これからこのふたりがどうなっていくのか、楽しみなものだ。



 エレベーターが開いて、ロイヤルキャピタルが入る階でふたりは揃って箱から出ると、廊下を進んだ。



 「陽世ちゃん、シエルの古宮さんに連絡してアポ取っといて。例の件の打ち合わせがしたい」


 「わかりました。でも、何かいい案があるんですか?」


 「風早七海のSNS、チェックしてみて」



 オフィスに入った陽世はデスクに座るとラップトップの電源を入れて自らのアカウントから風早七海のページを検索した。


 そこには、本物のモデルがアンジェの商品を着ている写真があった。プロのカメラマンに依頼したわけじゃなく、スマホのセルフィーのような写りだったが、それでも彼女が着るだけで商品が映えていた。



 『アンジェはいい商品がたくさんあるから、コーデのバリエーションを増やしたいならオススメ!』



 風早七海が写真と一緒に投稿した文には、可愛い顔文字が添えられていた。投稿されたのは昨日の夜だが、すでに一万を超える『GOOD』と二千件のコメントが寄せられている。


 さすがはインフルエンサーだ。



 「弥勒さん、これ、なんでこんなことに? 偶然ですか?」


 「会って頼んだ」


 「風早七海にコネがあったんですか?」


 「ある人の紹介で。やっぱり女優はオーラが違うな」



 陽世は「どうして私を呼んでくれなかったんですか!」と文句を言っているが、あの場に第三者を呼ぶことはできなかった。


 十年ぶりの再会だったのだ。


 かつてのクラスメイトであったことは内緒にしておこう。心晴が周囲に隠す理由がよくわかる。



 頬を膨らまして不満を露わにしている陽世だったが、すぐに古宮に訪問のアポを取ってくれた。



 「一時で了承もらいました!」



 語尾に力を込めた陽世は駄々をこねる子供のようだ。



 「ありがとう。一緒に行こうか」


 「あー、会いたかったー!」



 荒れる陽世、しばらくは恨まれそうだ。

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