第34話 長かった雨
午前九時、株式会社シエルの有楽町本社、企画広報部は大騒ぎになっていた。
ロイヤルキャピタルの担当者、陽世から電話を受けた古宮は、彼女から風早七海がSNSで自社ブランド『アンジェ』を宣伝していることを聞いた。
急いで普段からフォローしている彼女のページを開くと、確かにアンジェの商品を着た彼女の写真があった。
それも、その反響は凄まじく、情報が拡散され続けている様子だった。
「部長、これ見てください!」
古宮が席を立って新宅のデスクに駆け寄って、彼が操作していたタブレットを差し出した。
新宅はそれを手に取って内容を確認すると、「こんなことってあるの?」と、まるで夢を見ているような、現実を信じられないような反応をした。
「昼からロイヤルキャピタルが打ち合わせに来るそうなので、もしかしたらこの案件、一気に進むかもしれません」
「私も同席したいけど、昼から別件があるから古宮くんお願いできる? 天白さんとふたりで」
「承知しました」
古宮は内心ワクワクした。
亜希と酒を飲んだ後、彼は仕事で成功することを人生の目標にした。恋を諦めたわけではないが、それよりも仕事をすることが楽しくて仕方なかった。
「天白さん、ちょっと会議室で話せる?」
「はい」
楽しそうに軽快なステップを踏む大きい背中を追って、心晴はデスクを離れた。会議室に入ると、心晴は扉を閉めて古宮が座った席の向かいに腰掛ける。
「これって本当に偶然なのかな? 天白さん何か知らない?」
「いえ、私は何も」
心晴はシラを切り通すつもりでいた。
彼女が七海と親友であることを知るのは弥勒のみだ。
「そっか。本当に風早七海がアンジェを気に入ってくれてるなら、こんなに嬉しいことはない。これはチャンスだよ」
古宮はテーブルに身体を預けて心晴の方へと顔を近づけた。
「この宣伝効果が大きければ、上は契約料が高くても稟議を通すかもしれない」
「投資に見合った成果があると判断するってことですか?」
「うん。蓮見さんが打ち合わせをしたいってことは、何かしらの突破口が見つかった可能性が高いと思う」
「そうなったら、古宮さんの大手柄ですね」
「僕は何もしてないよ。とはいえ、確かに評価は上がりそうだ。それは天白さんも同じでしょ」
何もしていない、と言われればその通りだった。
心晴がやったことは長年の友人と、かつての同級生を会わせただけ。そもそも会わせたふたりは知った仲だ。そして、それは誰にも明かすつもりはない。
あくまで弥勒のコネという話にしておくことに、彼と口裏を合わせている。
彼が七海に言った、アンジェがメンズに向けてのラインナップを強化することで、風早七海の新規ファンを獲得できる見込みがある、という内容。
あれは、弥勒に言わせれば説得材料としては効果が弱かったらしい。それらしい言葉を並べたが、最終的には心晴と七海の信頼関係がもたらした結果だった。
理由などなんでもよかった。七海は必ず引き受けてくれると知っていたから。
「この件がうまくいけば、すべて心晴のおかげだ」
彼はそう言ってくれた。
昼から弥勒も一緒に来社するはず。そのとき、私は緩む表情を抑えられるだろうか。
「あのさ、法月さんのことなんだけど」
突然弥勒の話をした古宮に心晴は心を読まれたようで恥ずかしくなった。
「僕は、天白さんが幸せなら、うまくいくことを願ってる」
「古宮さん・・・」
「君を大切に思う気持ちは今も変わらない。だけど、僕がそう思うように、天白さんも法月さんをそう思ってるんだよね。十年待ったんだから」
「知ってたんですか」
「うん、聞いた。僕の恋が実らなくても、これからも天白さんとは、よき仕事仲間でいたいと思ってる。だから、変に気を遣わないで。僕は仕事を精一杯頑張るし、また新しい恋を見つけるよ」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
多少の負い目は感じるものの、古宮の清々しい笑顔に心晴のモヤモヤしていた気持ちは晴れた。
彼とは恋愛関係にならなかったけれど、仕事仲間としてこれからも切磋琢磨できる仲でありたいと願う。
「もう法月さんとは付き合ってるの?」
付き合っていると言っていいのだろうか。
大人になると「付き合ってください」という言葉を伝える場合もあるが、お互いの雰囲気から自然と交際がはじまることが多い。
あの日の夜、弥勒と心晴が両想いであることは確認したのだが、交際しているかと問われると、自信を持ってイエスとは答えられなかった。
これも恋愛経験値が乏しい者の定めか。
「付き合ってる・・・のかな?」
「わからないんだね」
古宮は心晴の曖昧な返事に笑った。
馬鹿にするわけじゃなく、恋愛に不器用な心晴に対して愛着を持ったのだろう。
「お互い好きなら焦ることはないと思うよ。いつだって会えるんだからさ」
「そうですね」
そう、十年前とは状況が違う。
ロンドンに行ってしまって二度と会えないはずだったあの頃と違って、同じ国、同じ東京にいて、会いたくなったらいつでも会える。
願えばいつでも、そこにいるのだ。
「今日は楽しみだな。天白さんが法月さんにどんな表情で会うのか」
「やめてくださいよ。変に意識しちゃうじゃないですか」
「必見だね」
「見ないでください」
きっと弥勒はポーカーフェイスのビジネスモードでやって来る。
仕事のときは取引先の社員としてお互いを扱うことが彼との間で定められたルールだからだ。
「さて、そろそろ仕事しようか」
「はい」
ふたりは会議室を後にして、オフィスに戻った。
それからも、古宮は弥勒のことで心晴をからかって楽しんだ。それは、彼なりに未練を残さないための行動だったのかもしれない。
しかし、決していい思いをしていない彼が、こうやって嫌な顔をせずに笑っていてくれることが、最高に男前だと思う心晴だった。
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