第28話 夕方の虹
亜希から連絡を受けたときは不安で仕方なかった。
弥勒がストーカーの男に暴行を受けて救急搬送され、精密検査を受けたとのことだった。
命に別状はなく、脳や臓器にも異常は見つからなかったと聞き、止まった呼吸をなんとか再開した。
心晴は病院のエレベーターに乗り、事前に教えてもらっていた階に向かう。部屋の番号も聞いてあるので、受付で場所を聞く必要はなかった。
今日は珍しく古宮が外で取引先の担当者と会う約束があると言って会社を離れた。心晴は面会時間に間に合うように、部長に相談して早退してやって来たが、会社を出るまでに古宮は戻って来なかった。
お見舞いに行くなら花でも買って行こうかと思ったが、どうせ渡すなら食べられるものがいいと思ってケーキを買った。
選んだそれが彼の好みであることを祈る。
エレベーターが開くと、フロアの案内を確認して彼がいる病室の方向に向かって歩き出した。
古宮が失礼な言い方をしてからというもの、彼とは一度も会っていないし、話してもいない。
怒っていないだろうか。
嫌われていないだろうか。
済んだことをどれだけ悔やんでも過去は変えられない。
今日こそ本当の想いをすべて彼に伝えよう。
病室の前に立つと、法月弥勒の名前がプレートに書かれていた。同姓同名の人物はどこを探してもいない。
心晴は大きく深呼吸して心臓の鼓動を抑えてから扉を三回ノックした。
「どうぞ」という返事があってから、扉の取手を掴んでゆっくりと横にスライドする。
「失礼します」
蚊の鳴くような声で頭を下げて病室に入ると、弥勒は穏やかな顔で私を見た。
「体調は、いかがですか」
「もう元気ですよ」
「よかったです。あの、ケーキを買って来ました。よろしければ、召し上がってください」
「ありがたく、頂戴します」
弥勒はベッドから降りて心晴からケーキが入った箱を受け取ったが、動く彼は痛みに耐えているようで辛そうだった。
「私が冷蔵庫に入れますから。動かないでください」
「大丈夫ですって」
冷蔵庫にケーキを仕舞った弥勒は、丸椅子を心晴に差し出して、ベッドの縁に座り直した。
ちゃんと話そう。
心晴は覚悟を決めた。
「古宮さんが言ったこと、本当にすみませんでした」
「気にしていませんよ。天白さんのために言ったことでしょう。迷惑をかけた私の方こそ、会わせる顔がなかったので」
「別に怪我をしたわけでもありませんから、私は気にしていません。もう犯人も捕まったそうですし」
そのために弥勒が相手を挑発して暴行を受けたことも亜希から聞かされた。
無謀すぎる。
もし、弥勒に何かあったら、二度と会えなかったら、私の人生は大雨になっていた。
「ここまでやられるとは思ってなかったんですけどね。読みが外れてしまって。コンサルとして情けないです」
「笑い事じゃないです。もう無茶はしないでください」
「朝から刑事さんに説教され、代表と部下に説教されて、また説教です」
うんざりだとわざとらしく両手を広げて戯ける弥勒に、心晴は怒りを覚えた。決して笑って済ませていい話じゃない。
「ふざけないでください」
「はい、すみません」
怒りのトーンで話す心晴に冗談はいけないと判断したのか、弥勒は肩を丸めて頭を下げた。
「いえ、その、それだけ心配だったということです」
「方法が間違っていたことは承知しています。でも、結果的にストーカーは逮捕されたので、よかったと思っています」
結果だけを見ればよかった。弥勒がこんな大怪我をしていなければ、手放しで喜びを分かち合えたはずだ。
もう、私が長々と同じことを責めても仕方ない。そもそも私は説教する立場にない。
「今日は、どうしてもお伝えしたいことがあって来ました。少しだけ、お時間よろしいですか?」
「幸い暇を持て余してますから、面会時間が許す限りなら」
彼は私が何を伝えようとしているのか、それをすでに知っているのだ。
彼がこちらに向ける表情は優しかった。
「謝りたいことがあって」
「またですか? 今日はよく謝られる日だな」
弥勒はすでに誰かから謝罪を受けたらしい。それが何かと考える余裕はなかった。
「十年前の卒業式の日、お別れの挨拶をしてくれたあなたに、私は何も言わずに逃げた。高校を卒業したらロンドンに行くと言われたときから、私はあなたを避けてしまった」
とうとう伝えてしまった。
この十年間心に閉じ込めていた後悔を、開放するときが来た。
「本当にごめんなさい。大切な友達だったのに、とても失礼なことをしました。ずっと、謝りたかった」
「なんのことですか?」
弥勒は怪訝な表情で心晴の顔を見ていた。まるで、それは俺の話なのかと訊ねるように。
「あなたは弥勒くんなんでしょ? 湘北高校で私はあなたのクラスメイトだった。私のこと、覚えてない?」
「覚えてるよ。心晴は高校に入学してひとりも友達がいなかった俺にできた、最初の友達なんだから」
やっと、本当の弥勒に会えた気がした。
十年経って、顔つきは大人になったし、立派なビジネスマンとしての風格もある。でも、彼は時間が経っても、あの頃の彼だった。
「だけど、卒業式の日のことは、気にしてない。それよりも、俺の方こそ、心晴に謝りたかった」
「どうして?」
「ふたりで最後に遊びに行った八景島シーパラダイスで、俺は高校を卒業したら海外の大学に進学すると伝えた。でも、それから俺は避けられるようになった。何か傷つけるようなことをしたんだろうなって、そう思ってたけど、どうすればよかったのかは、今でもわからない」
「違う。弥勒くんのせいじゃない。ただ、あなたが・・・」
この先の言葉を躊躇した。
言ってしまえば、せっかく再会した運命を捨てることになるかもしれない。彼とはもう、もとの関係に戻れない。
「好きだったから。告白されるんじゃないかって、馬鹿な期待してた。だから、余計に辛くて」
「本当は言いたかった。付いて来てほしいって。でも、心晴には心晴のやりたいことがあるだろうし、高校を卒業してすぐに俺の都合で夢を諦めろなんて言えなかった」
そうだったんだ。知らなかった。あの頃私たちは、間違いなく両想いだったんだ。
遠距離恋愛をしようにも、まだ子供だった私たちに未来のことなど何もわからなかった。だから、彼がした選択は私のためで、他にどうしようもなかったんだ。
心晴と弥勒が目を合わせると、ふたりは十年の時を経てお互いの心の底を覗き見た。
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