時雨

第29話 屋根の下で

 九月になり、真夏の猛暑が過ぎ去った。


 長く降り続いた雨が止んだ、はずだったのに、また秋雨前線が日本に停滞する季節になった。


 天気予報を確認すると、ここから数日間は毎日雨で、たまに降らない日は曇りになりそうだ。



 「天白さん。お待たせしました」


 「私も今来たところです」



 駅前で待ち合わせした心晴と弥勒は、これからある人に会いに行く。


 弥勒から合わせてほしいと連絡を受けてから、実現するまで一ヶ月近くかかった理由は、その人物が多忙なスケジュールで働いているからだ。



 「売れてる女優は忙しいんですね」


 「はい、私もなかなか会えません」



 七月の下旬、弥勒がストーカーに暴行されて入院したとき、心晴は彼にすべての心の内を晒した。嬉しいことに、彼も当時同じ気持ちでいたことがわかった。


 それなのに、あれから弥勒は以前と変わらずに心晴を名字で呼び、ふたりで会いたいと願っても、避けられているように先延ばしにされた。


 こうしてプライベートの時間に会うこともほとんどないのに、そのときですらお互い敬語で会話している。


 高校生の頃の関係に戻ることはできない。そう言われているようだった。


 ふたりが向かう先は、心晴が親友と会うときに必ず使う飲食店だ。


 店に入ると、店員は心晴の顔を見て何も訊ねることなくいつもの個室へと通してくれた。


 いつも待ち合わせをする人物が有名人なだけに、彼女のことも覚えてくれているようだ。



 「顔パスなんですね」


 「毎回ここを使いますから。七海はもうすぐ着くそうです」



 十年ぶりに会う友人を前にしても、弥勒は敬語で接するのだろうか。できればそうであってほしい。


 心晴にだけ敬語だと、それはそれでとても寂しい気持ちになる。



 「今日は、友人として七海に会うんですか?」


 「それもありますが、目的はビジネスの方です」


 「弊社の件ですか?」


 「はい。これがうまくいけば、契約ができるかもしれません」



 弥勒が何を企んでいるかは知らないが、業界で有名な彼のことだ。何か秘策があってこの場に来ているに違いない。



 「お邪魔しまーす」



 五分ほどして、多忙な女優が個室に顔を見せた。常に綺麗な身なりをした彼女を見ると、一緒にいることが惨めになることがある。



 「お待ちしていました。風早七海さん」


 「あれ? そんな感じ? 友達なんだから、もっと気楽に話したいな」


 「そういうわけにはいきません。時間を作ってもらったわけですから、礼儀はわきまえないと」



 弥勒は胸ポケットから名刺を持つと、立ち上がって七海に渡す。受け取ったそれを見た彼女は、「法月弥勒さんですね」と悪戯に笑って「頂戴します」とテーブルの隅に置いて座った。



 「それなら、友達として話す前に本題を終わらせましょうか。その方が、私も気が楽なので」



 七海にはまだ会社が考えている契約の件は話していないが、契約料の見積もりを依頼したので、耳に入っている可能性はある。


 ただ、それを心晴の口から伝えることは、会社の規則に反する。



 「アパレルブランドのアンジェはご存知ですか?」


 「もちろん、私の親友が勤めている会社のブランドですから」


 「それを、SNSで宣伝していただきたいんです」


 「個人のアカウントで、ですか?」


 「そうです。商品は私から提供します。風早さんのファンの年齢層はアンジェがメインターゲットとしている層と近いはず。それによって、アンジェの知名度は飛躍的に上がる」



 弥勒が考えたのは、事務所を通して契約するのではなく、七海個人のSNSからアンジェを宣伝してもらうことだった。


 有名人があくまでに気に入っているものを紹介する。その名目であれば、契約料は発生しない。



 「親友の会社だから応援したいし、できる協力はします。ただ、私もプロとして芸能の世界にいるので、ただのボランティアはできません。私が協力するメリットはあるんですか?」



 心晴は真剣にビジネスの交渉をする弥勒と七海の姿を見ていることしかできなかった。彼らはお互いプロとして話をしている。


 そこに素人の心晴が口を挟む余地はなかった。



 「ゆくゆくは正式な契約を考えています。ただ、現状は風早七海というビッグネームに対して、それに見合ったネームバリューをアンジェは持っていない。そこで、そのネームバリューを得るもっとも早い方法は・・・」


 「風早七海のファンを取り込むこと」



 弥勒は七海に先回りをされた結論に頷いて、「そうです」と切り返したが、彼女は納得していない様子だ。



 「それでは、結局私がアンジェを有名にするだけですよね? 契約によって得られる収入があることは理解できますが、あまりフェアじゃないかと」



 心晴が話を聞いているだけでも、七海の主張は理解できた。


 七海がSNSでアンジェを身につけて写真を投稿するだけで、数百万人にブランドを知る機会が生まれる。


 しかし、それはあくまで七海のファンだけのことで、アンジェを無料で宣伝してほしいと依頼されているだけにすぎない。プロとして、広告塔になる対価を受け取らないという選択はできない。



 「これを見てください」



 弥勒は微笑んでアンジェのカタログを取り出した。


 それは、社内で最近共有されたばかりの未公表の新作が掲載されたもので、プレスリリースを控えたものだった。


 「法月さん、これは」と制止する心晴に、「社長さんの許可はいただいています」と弥勒は先手を打った。



 「アンジェはこの冬、メンズをターゲットにした挑戦をしようとしています。風早さんのファン層は圧倒的に女性が多い。例えば、あなたの女性ファンがアンジェに興味を持つと、彼氏もそのブランドを知ることになる。その彼氏がアンジェを着て、それを見た友達がアンジェに興味を持つ」


 「アンジェきっかけで、私のファンが増えるということですか?」


 「若者のほとんどは流行に敏感です。超売れっ子女優の風早七海と、若者に流行りのアパレルブランド。どちらかを知れば、もう一方を知る。どうでしょう? この上ない関係になれると、私は見込んでいます」



 七海は弥勒のプレゼンを聞いて、すぐに了承した。


 ただし、ひとつだけ弥勒に聞いてほしいお願いがあると言って。



 「心晴と友達になってあげて」

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