第13話 弱まる雨

 月曜日、株式会社シエルの有楽町本社に出勤した心晴は自分のデスクについた。


 仕事がはじまる憂鬱な月曜日のはずなのに、たったひとつの出来事が気分を軽くし、一週間のはじまりが嫌なものだと思わせなかった。


 その出来事とは、弥勒と連絡先を交換したことだ。


 土曜日に古宮をホテルに泊めて、弥勒が止めたタクシーに乗って帰宅。料金は三千円ほどで彼が渡していた一万円から運転手がお釣りを渡そうとしていたが、それを受け取る権利は心晴になかった。


 きっと今度返そうとしてもいらないと言われてしまうと考え、彼に感謝しつつお釣りは運転手に取ってもらった。


 帰宅して最初にしたことは、弥勒にショートメッセージを送ることだった。



 「今日は本当にありがとうございました。今度お礼させていただきます」



 その社交辞令のようなメッセージに対して、弥勒からすぐに『楽しみにしています』と返信があった。


 つまり、お礼をする大義名分で彼とふたりで会うことができるのだ。我慢しても笑みがこぼれてしまう。



 「おはよう、天白さん。土曜日は本当にごめん」



 隣のデスクに出勤してきた古宮が開口一番で両手を合わせて心晴に謝罪した。


 亜希とレストランでワインを飲んだ後、バーでさらにお酒を飲んだ古宮は見事に駆逐された。翌日ホテルで目が覚めた彼は、犯した失態に頭を抱えたのかもしれない。



 「本当に大変でしたよ。代表さんのお酒の強さは別格でしたね」


 「本当にごめん。反省してる。あの人は怪物だったよ」


 「法月さんがホテルまで運んで宿泊代まで出してくれたんですよ」


 「うわー。今度お礼しなきゃ」


 「大丈夫です。私がお礼しておきますから」


 「え、俺も行くよ。ってか俺が行くよ」


 「古宮さんがお礼されるなら構いませんが、私は別でお礼します」


 「一緒にお礼した方がいいんじゃない? 別々になんて気を遣わせそうだし」


 「私は私で別に話したいこともありますから」


 「えー、なんの話?」



 なぜ古宮がここまで食い下がるのか、その答えは心晴には見つけられなかったが、彼が何を言おうと関係ない。


 ようやく手に入れたチャンスを無駄にしたくない。


 七海にも弥勒との連絡が可能になったことを報告すると、彼女は喜んでくれた。


 今度会ったら、彼に真実を伝えるべきだろうか。また一から関係を練っていくことは難しい上に時間がかかる。かと言って、彼が本当のことを知りたくないと考えている可能性もある。


 難しい問題だ。



 「古宮くん、天白さん。少し話せる?」


 「はい」



 始業早々に心晴と古宮は部長の新宅に呼ばれて小さな会議室に移動した。他の社員には聞かれたくない話なのだろう。



 「風早七海との契約の件なんだけどね」


 「もう白紙になったんじゃ?」


 「それが、上は前向きに進めたいそうなのよ」


 「どうしてですか? ロイヤルキャピタルは人選を考え直すように言ってましたが」



 金曜日の発表の場で弥勒は包み隠すことなく風早七海では契約料がかかりすぎると断言した。そして、シエルは他の広告塔を検討するようにと助言を受けた。


 それでも上層部は風早七海との契約を望んでいる。コンサルタントがリスクを指摘してもこの企画を押し通したいというのだ。



 「そこで、あなたたちにお願いがあって。ロイヤルキャピタルと協力して風早七海と契約ができる方法がないか探してほしいの。契約料の交渉ができれば一番なんだけど、それは難しそうだし。私も頭を抱えてて」


 「そんな無茶な。失敗したら誰が責任取るんですか」


 「私でしょうね」



 新宅は頭を抱えて俯いた。


 上層部の命令とあれば従うしかないが、その責任は現場の管理者に向けられる。会社とはそういうものだ。



 「そういうわけで、無茶なことだとわかってるけどなんとかいい方法を探してほしいの。何かあれば私も協力するから、なんとかお願い。今度焼肉奢るから」



 新宅が両手を額の前で合わせて懇願した。


 高級焼肉でも釣り合わないほどの無理難題だが、それでもどうせやるなら見返りがある方がまだいい。



 「わかりました。ロイヤルキャピタルに一度相談してみます」


 「よろしくね」



 忙しい新宅は短時間で会社の未来を決める重大な話を終えて会議室を出て行った。


 残された心晴と古宮はお互いの顔を見合わせて苦笑いをする。



 「困ったね」


 「はい、困りました」


 「とりあえず、担当の人に電話してみる」



 古宮はスマホを取り出すと、名刺ケースから『蓮見陽世』の名刺を探して電話番号を入力していく。


 彼女はすぐに電話に出たらしく、古宮は名乗ってから相談したいことがあるから時間をもらえないかと訊ねた。


 偶然彼女は午後から予定がキャンセルになったらしく、こちらに来てくれるとのことだった。


 古宮は「できれば法月さんも来ていただけますか」と訊ねてみたが、彼のスケジュールは確認しないとわからないので、可能であれば同行してもらうと言って電話を終えた。



 「とりあえず、時間はまた連絡をくれるから、それから。午前は通常業務で、昼から出ようか」


 「わかりました」



 ビジネスとはいえ、また彼に会うことができる。私情は挟まずに仕事をしなければならないが、それでも彼と共有できる時間は楽しみだった。


 心晴と古宮はデスクに戻り、通常業務を開始した。


 心晴はスクリーンに並んだ付箋を確認し、優先順位を決めて早く終えられるものから順番に業務を遂行していく。


 隣の古宮はどうやら風早七海との契約についてロイヤルキャピタルがまとめた報告書に目を通しているらしい。


 陽世が昨日メールで送ってきたそれは、詳細なデータをもとにシミュレーションされた数値が並んだもので、結論がわかりやすく書かれていた。


 日曜日に仕事をして送ってくるとは、なんと真面目なことか。今の若い人たちはこれを社畜と呼ぶのだが、彼女のようなエリート会社員であれば当然のことなのかもしれない。


 それは、心晴には到底できないことだ。


 心晴がメールを整理していると、古宮のスマホに着信があった。


 隣で電話に出た古宮は、心晴にもわかるように「わかりました。二時に、こちらにくださるんですね。お待ちしております」と時間を復唱した。


 心晴は付箋を一枚取り、「二時。ロイヤルキャピタル」と書いてスクリーンの目立つところに貼った。

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