第14話 撒かれた泥水
「当分酒は控えてよ。いつも誰か潰すんだから」
「もうわかったわよ。ごめんって」
月曜日の朝、株式会社ロイヤルキャピタルの代表取締役室で弥勒が亜希に苦言を呈した。
仕事モードの亜希はスタイルが強調されるタイトなスーツを着ているが、部下に説教される彼女にその威厳はない。
内容はもちろん二日前のことだ。
彼女がバーに行ってからも楽しく酒を飲み続けたせいで取引先の社員を酔い潰してしまった。しかもプライベートの彼を。
デート中だったふたりを食事に巻き込み、さらに酒で潰すという迷惑極まりない行動を取った亜希を上司といえども黙って受け流すことはできない。
ビジネスは常に人脈から作られる。そうやって成功してきた彼女は遠慮というものを知らない。
ビジネスの場面ではそれでいいかもしれないが、それをプライベートに持ち込んでしまうと距離を置かれることもある。
「結局あのふたりは付き合ってなかったわけでしょ」
「今後付き合うのかもしれないだろ。だからデートしてたんじゃないの」
「そういう考え方もあるか」
「他に何があるんだよ」
亜希は決して悪い人間ではないのだが、空気を読めないところがある。彼女は素晴らしく頭がよくビジネスの才能に秀でているが、利益のためなら無理をすることが多々ある。
そのせいで事業を彼女に奪われて恨みを持つ者もいる。そうならないように弥勒がブレーキ役を担っているのだ。
アクセルを吹かしすぎて止まらないこともたまにあるが、それはもう仕方ないことだと諦めている。
あくまで成功している状況でなら、何も文句を言うことはない。
弥勒の説教が終わると、扉を三回ノックする音がして、入って来たのは陽世だった。
「失礼します」
「陽世、おはよう」
「おはようございます、代表。弥勒さんお借りしてもいいですか?」
「どうぞ持って行って。うるさいから」
「もの扱いしないでくれるかな?」
弥勒の冷静な怒りを亜希は笑って弾き返した。
陽世に呼ばれて部屋を出た弥勒は大きくため息をついた。
「何かあったんですか?」
「土曜日に亜希さんと映画観て来たんだけどさ。シエルの古宮さんと天白さんに会って、強引に巻き込んで潰すいつものパターン」
「あー、やっちゃいましたか。というか、あのふたりそういう関係なんですか?」
「付き合ってはないらしいけど」
「同僚以上って感じなんですかね」
陽世はこういった他人の恋沙汰が大好物なのだが、それを仕事に持ち込むことはできないので、ドラマや映画で発散するらしい。
「それより何かあった?」
「今お話に出た古宮さんから連絡がありまして、相談があるそうなんです。午後から伺おうかと」
「新しい広告塔の候補が上がったのかな。行って来なよ」
「弥勒さんにも来てほしいそうなんです。私だけじゃ不安なのかも」
「今日は昼から別件でアポイントあるから厳しい。その場で答えが出ないなら持ち帰って来て。後で一緒に考えるから」
「そうですか。わかりました」
オフィスに戻って鞄を取ると、ふたりは午前の案件で同じタイミングで外に出ることになった。
エレベーターを降り、一階のロビーを抜けて外に出ようとしたとき、大きな怒鳴り声が耳を突き刺した。
その方向に目を向けると、青いスーツを着た中年のビジネスマンが清掃をしているまだ若い青年を頭ごなしに怒鳴りつけていた。
褪せた緑色の作業着を来た青年の足元には倒れた水色のバケツがあり、水が床に撒かれている。どうやらビジネスマンがバケツを蹴ってしまい、清掃員に文句を言っているらしい。
ロビーにいる全員が彼らを注視する中、いくら清掃員が謝罪をしても怒号は収まることがなかった。
「こんなところにバケツ置くなって言ってんだよ! 汚い水でスーツが汚れたんだぞ。弁償しろよ!」
その怒りはだんだんと理不尽なものに変わっていき、ビジネスマンは「低学歴で底辺の人間」「誰でもできる価値のない仕事」など、人格否定や職業を差別するようなことまで言いはじめた。
弥勒がさすがに見ていられないと一歩足を踏み出すと、それより早く陽世が駆け足で彼らに向かって行く。
「やめてください!」
小動物のように小柄な陽世がすごい剣幕で近づいて来たことにビジネスマンは怯んだが、「お前には関係ないだろ!」とすぐにもとの調子に戻った。
「その人は自分の仕事を一生懸命しているんです。仮にバケツが邪魔なところにあったとしても謝ってるんですから、人を差別するような言い方はよくないです」
「こんな汚れた服で働くやつなんてろくな人間じゃない。俺のように高学歴で高収入の選ばれた人間は常に正しいんだ。小娘が生意気な口を聞くな」
今にも殴りかかりそうな勢いで陽世に詰め寄る男の前に弥勒が歩み出た。
「あなたがどれだけ優秀でも他人を嘲笑う権利はないと思いますが」
弥勒の汚いものを見るような鋭い視線に再び怯んだようだが、偉そうなビジネスマンはドヤ顔で「俺は東京大学を卒業した。年収も二千万円だ」と胸を張った。
「東京大学を卒業して年収二千万円ですか。確かに勝ち組ですね」
「そうだろ。お前らのような凡人とは違う」
「あなたの目の前にいる私の上司はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業して、現在はこのビルのある会社でナンバーツーを務めています。私も東京大学出身です」
陽世のすらすらと朗読したような台詞に男は口をぱくぱくさせながら「LSE」と唱えた。
「さすが、ご存知でしたか。世界大学ランキングなんてものに興味はありませんが、確か東京大学より上位だったかと。ちなみに昨年は三千万円ほど給与をいただきました。あなたの理論が正しいとすれば、俺はあなたより偉い、ということになりますが・・・まだ何か主張されますか?」
周囲の視線があっさり敗北したビジネスマンに対する哀れみに変わり、耐えられなくなった彼は「若造が生意気なんだよ!」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。
「三千万円も?」
「嘘だよ、そんなにあるわけないだろ。あまり無茶をしないでくれ」
「すみません。あの人のことが許せなくて」
「気持ちはわかる。人間の価値は身につけてるものや学歴だけで決まるものじゃないからな」
惨めなビジネスマンが立ち去ったロビーには平穏が訪れた。
「助けてくれてありがとうございました」と頭を下げる清掃員に、陽世は「いつも綺麗にしてくれてありがとうございます」と逆に感謝を述べた。
その姿を見た弥勒は、部下を誇らしく思ったのだった。
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