第8話 波打つ水面

 会議室は株式会社シエルの人間が横一列に座り、向かいの十ある席の前方、スクリーンのすぐ近くの二席に株式会社ロイヤルキャピタルの法月と陽世が座った。


 あれは弥勒なのか。


 心晴の心は彼に支配されていた。容姿は十年経って大人びているが、顔は心晴が知っている彼だ。


 こちらは人数が多く、彼は一番後方に座っている心晴の姿が見えていない。


 これから彼らがプレゼンを行うのだ。邪念は捨てなければならない。


 わかっていても彼が気になって仕方ない。



 「それでは、調査結果の報告をお願いできますか?」



 社長が彼らに向けて言った。



 「本来であれば、私が行う予定だったのですが、こちらの蓮見よりご報告させていただいてもよろしいでしょうか」


 「わたしですか?」



 一緒に来た陽世が法月の提案に驚いている。予定外の事態と言ったところだろうか。



 「彼女は私が指導してあと一歩で一人前になれる人材です。どうかこの蓮見に成長の機会をいただけませんか? 足りない部分は私が補足いたしますし、御社からご依頼いただいた分の働きは果たします」


 「では、蓮見さんのお手並を拝見しましょうか。この機会で成長してくれるなら、我々も協力します」


 「ありがとうございます」



 社長が法月の提案を飲んだ。彼は満足げに微笑んで陽世の肩を叩いたが、任された彼女は不安な表情でタブレットを外部出力に繋いだ。彼女のタブレットの画面が前方のスクリーンに表示される。



 「それでは、私からご報告をさせていただきます」



 緊張している陽世を見守る法月の表情は実に穏やかだった。


 あの顔は覚えている。高校生の頃、彼とふたりで食事や買い物に出掛けたとき、彼はいつも私に優しく微笑んでくれた。


 十年経っても彼は何も変わっていなかった。今そこで微笑んでいる法月は、間違いなく弥勒だ。



 「風早七瀬さんとのブランドモデル契約につきまして、弊社が持っているデータをもとに費用対効果を算出いたしました」



 陽世がタブレットを操作すると、スクリーンにグラフが表示された。素人目に何が書かれているのかわかりづらいものだったが、彼女はうまく言葉で説明をしながら難解に見えるデータを誰にでもわかりやすいもに変えていった。



 「これらのデータより、風早七海さんをブランドの広告塔として起用することは日本中での認知度を上げる上では大変効果的であると言えます」



 陽世の説明はとてもわかりやすかった。シエルの決断は間違っていないと肯定してくれるもので、社長を含め上席の役職者も満足しているようだ。



 「この契約の期間と契約料はどうなっていますか?」



 陽世の説明に区切りがついたところで、法月が社長に質問をした。すると、社長は企画広報部長の新宅にある資料を提示するように指示を出す。


 新宅は手元のタブレットを法月に手を伸ばして渡すと、彼は画面に表示されている情報に目を通した。


 彼は、ほんの十秒でそのタブレットを陽世に渡して「どう思う?」と訊ねた。陽世は内容を確認したものの、その答えが発見できないらしく、何も答えようとしない。


 やっと口を開いた彼女は、「厳しいかもしれません」とだけ言った。



 「理由は?」


 「先ほどのデータに照らし合わせると、得られる成果よりもかかるコストが高すぎると思います」



 陽世の答えを聞いた法月は、彼女の顔を見て「だろうね」と言った。おそらく彼らの想定よりも契約料が高額だったのだろう。



 「私は芸能にあまり精通していないのですが、現状でこの額を投資するにはリスクが高すぎるというのが我々の見解です。風早七海さんを起用すれば間違いなくアンジェは若者を中心にバイラル・・・いわゆるバズるでしょう。ただし、それが御社の利益に対してダイレクトに影響するわけじゃありません。ロイヤルキャピタルとしては、人選の再考を提案します」


 「つまり、モデルの認知度を妥協してコストを抑えた方がいいということですか?」


 「はっきりと言えばそういうことになります。ただ、そうなればさらに利益に反映されないことになるでしょう。下手をすれば、そもそもモデル契約という考え方をやめた方がいい、という結論に至る可能性があります」



 会議室は静まり返った。社運をかけた企画が根本から否定されたようなものだ。そして、お通夜のような空気の中でプレゼンは終了した。



 「天白さん、エレベーターまでお見送りして」


 「え、はい」



 心晴は新宅に言われて急いで会議室の扉を開けて、法月と陽世をエレベーターまで送ることになった。


 こんなにすぐ近くにいるのに、彼は私に気づかない。


 エレベーターのボタンを押し、彼らを送る箱が到着するのを待つ。


 このまま帰ってしまったら、彼とは二度と会えないかもしれない。でも、仕事にプライベートを持ち込むのは不正解だ。



 「あの・・・」



 耐えきれずに出た言葉に法月と陽世が心晴を見た。



 「お名刺を頂戴できませんか?」


 「担当はこちらの蓮見なので。陽世ちゃん、お渡しして」


 「私は先日ご挨拶しましたよ」


 「そうなんだ。私は立場上御社と直接連絡を取ることがないので、名刺を渡してもあまり意味がないかと思うのですが・・・」


 「お会いした方とは出来る限り名刺の交換をさせてもらっているんです。どこで繋がりがあるかわかりませんので。もし、ご迷惑じゃなければ」



 法月は不思議そうな表情をしたが、胸ポケットから名刺ケースを取り出すと一枚だけ取って心晴に差し出した。


 心晴も名刺ケースを出そうとしたが、いつも入っているポケットにそれはなかった。


 デスクに置いてあるのかもしれない。自分から交換を申し出ておいてなんとも恥ずかしい失態だ。



 「申し訳ありません。交換をお願いしておきながら、名刺ケースを忘れてきてしまいました」


 「構いませんよ。天白さんのお名刺は蓮見が頂戴していますので。どうぞ」



 心晴が彼の名刺を受け取ると同時に、エレベーターの扉が開いた。彼らが「失礼します」と頭を下げたまま、ゆっくりと扉は閉まった。


 渡された名刺には、『株式会社ロイヤルキャピタル 統括本部長 法月弥勒』の文字があった。

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