群雨

第9話 滴る髪

 「はじめてにしてはよくできたんじゃない?」


 「でも、結局話が流れそうですけどね」



 株式会社シエルの有楽町本社を去った弥勒と陽世は山手線に乗って移動を開始した。彼らのオフィスは表参道のビルにあってオフィス街という印象が薄いものの、テナントは空きが出るとすぐに入れ替わりで会社が入るような人気の高いエリアだ。


 原宿駅で電車を降りて徒歩で五分ほど。



 「ちょっとカフェでも入ろうか」


 「戻らないんですか?」


 「その前に今日のプレゼンの話がしたい」


 「駄目出しですか?」


 「フィードバックだよ」



 ふたりは行きつけのカフェに到着した。テラス席があるカフェで、晴れた日は外でコーヒーを飲むことができるお店なのだが、生憎梅雨の時期はエアコンが効いた室内の方が快適だ。


 弥勒はストレートティーを、陽世にコーヒーを注文して空いている席に移動した。食事は自分が食べた分は支払うが、カフェに入ったときは弥勒が必ずふたり分を支払ってくれる。



 「いつもありがとうございます」


 「プレゼン頑張ったで賞」


 「最優秀賞はくれないんですか?」


 「それは俺だってまだ受賞してない」



 そう、弥勒は常に自分に厳しい。うまくいった日でさえ「あそこはこうすればよかった」と自己分析をしてさらなる高みを目指す。


 だからこそ、陽世は彼のスタイルを尊敬し、彼の部下として働くことが成長に繋がることを確信している。それがモチベーションであり、喜びだった。


 イギリスにいた弥勒は紅茶をこよなく愛していて、カフェに立ち寄ると必ずストレートティーを注文する。


 陽世は紅茶も飲むことがあるが、どちらかと言えばコーヒーの方が好みだ。それを理解して弥勒はいつも別のものを注文してくれる。



 「さて、それじゃあフィードバックの時間ね」


 「はい」



 紅茶を一口飲んだ弥勒は陽世を見た。ひとときの休憩から仕事モードに切り替わった彼女は姿勢を正す。



 「全体的に説明は簡潔でよかった。ただ、あのグラフなんだけど」



 弥勒は自らのタブレットからデータを引っ張って陽世に見せる。そして、それは彼女が用いたものとは違っていた。



 「俺なら誰が見てもわかるレイアウトに変える。もちろん専門的な用語も含まれているから、今日の陽世ちゃんみたいに説明は必須。ただ、見てわかる方が説明もわかりやすいと思わない?」


 「確かに、これなら知識がなくても少しの説明があればすぐに理解できそうです」


 「人間は視覚からの情報が七割を占める。だから、どんな情報でも目から訴える方が効果的だと言われている。そこを意識すればもっといいプレゼンができたんじゃないかな。プレゼンの質は九十九パーセント準備で決まると言っても過言じゃない」


 「ありがとうございます。このグラフを作り直してみます」



 陽世はスケジュール帳のメモ欄に『グラフ修正』と書き込んだ。



 「あともうひとつ、惜しいところがあった。何か思い当たる?」


 「プレゼンの前に契約料の確認を行うべきでした」


 「それがわかったなら、今日のプレゼンは大成功だよ。報告として一度モデル契約にポジティブになっておきながら、結局結論は反対だった。あれではクライアントから不信感を持たれてしまう。もし、そのまま前向きに進めたとしても必ずリスクは存在するし、その説明はしておくべきだ」



 弥勒の話を聞きながら、陽世はスケジュール帳に指摘されたことを細かくメモにとっていた。


 彼女には向上心がある。そういう人間はきっとこれからも成長を続けるだろう。



 「ねえ、風早七海ってそんなに有名?」


 「弥勒さん、芸能界には疎いですよね。テレビ見ないんですか?」


 「持ってないし」


 「テレビ持ってないんですか? 家で何してるんですか」


 「ラップトップでニュース確認したり、音楽聴いたり」



 イギリス帰りの高学歴、モデル体型でいて爽やかな青年、プライベートな時間までも仕事のための情報収集を行っている弥勒はパーフェクトヒューマンだ。



 「風早七海は最近ドラマでは必ず主演、映画も主演、モデルとして雑誌の表紙を飾って、まさに令和のスーパースターじゃないですかね」


 「でも、歌は苦手なんだよな」


 「え、そうなんですか? それは知りませんでした。どこ情報ですか?」


 「んー、ネットに載ってた気がする」



 外を見ると相変わらず鬱陶しい表情をした暗い雲が空を覆っていた。いつ雨が降り出すかわからない。


 会社に戻らなければと紅茶を飲み干して、「そろそろ行こうか」と立ち上がった弥勒に、急いでコーヒーを飲み干した陽世がある質問を投げかけた。



 「そういえば、天白さんとどこかで会ったことあるんですか?」


 「どうして?」


 「なんとなく天白さんは弥勒さんのこと知ってるのかと思ったんですけど、気のせいですか?」


 「どうだろう。会ったことあるのかな。それより、今日は突然プレゼンさせてごめんね。本当は俺がやる予定だったんだけど」


 「びっくりしましたよ。私はそんな予定じゃなかったから。念のためにデータをまとめておいてよかったです」



 そうだよな。


 プレゼンは準備が重要なんて言っておきながら、直前で振られては準備などしようがない。むしろ、自分のデータを持っていただけ彼女は優秀な人間だ。


 ただ、会議室に入ったときに衝撃的な光景を見てしまった。


 もう会わないと思っていた人の顔が部屋の一番奥に見えたから。気づいていないふりをするのが精一杯で、プレゼンどころじゃなくなった。


 天白心晴、俺の人生でもっとも尊く、そして、会いたくなかった人。



 「戻ろうか」



 弥勒と陽世は小雨が降り出した表参道の歩道を小走りでオフィスへと向かった。

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