第5話 曇り時々
七月に入って気温は連日の夏日、梅雨の湿度で不快度はさらに増して満員電車の窓ガラスは曇ってしまう。
心晴は株式会社シエルの本社オフィスに出勤し、自分のデスクに座った。コンピュータのスクリーンにはいくつかのカラフルな付箋が貼られており、それらを確認することで本日の業務が決定する。多少の残業はしつつも無理ない程度に仕事をするのがこの会社の方針だ。
午前十時から広報の打ち合わせがあり、外部から来客があるらしい。
「天白さん、おはよう」
「おはようございます」
出勤して来て隣のデスクに鞄を置いたのは
筋トレが趣味で長身、体格がいい。心晴より五つ歳上で頼れる先輩社員だ。彼はときどき心晴を食事に誘い、必ず奢ってくれる。
デートという形式ばったものはしたことがないから、彼が心晴をどう思っているかはよくわからなかった。
「今日の打ち合わせよろしくね」
「古宮さんと私のふたりでお客様と打ち合わせですか?」
「うん、ちょっと大きな話が進んでててね。資金を調達してうちのブランドを大々的に宣伝しようって話が出てるんだ」
株式会社シエルは関東を中心にアパレルショップ『アンジェ』の運営と同名の自社ブランド販売に特化した会社だ。
「えーっと、つまりどういう?」
「アンジェをもっと大々的に宣伝して全国の人に知ってもらうための企画を考えてる。投資を受けるんだけど、そのためにコンサルタントと打ち合わせをするんだよ」
とにかく大きなプロジェクトを計画しているということだろう。
「そんな大事な打ち合わせに私が?」
「部長が僕と天白さんに任せるって」
それは嬉しい話だけど、圧倒的に不安の方が勝る。仕事のみに集中している人生を思えば、好機なのかもしれないが。
メールのチェックや付箋にあった仕事を優先順で終わらせ、九時五十分になって会議室に向かう。
「まだ社外秘の情報だし、社内にもリリースしてないからここだけの話にしてほしいんだけど」
「はい」
「風早七海とブランドのモデル契約をする予定で。僕も最近知ったんだ」
心晴は社員がひとり一台支給されているアイパッドを持って古宮と一緒に廊下を歩いた。表情が強張っている心晴を見た彼は笑う。
心晴の心臓は大きく音を立てていた。まさか、うちのブランドを七海が着ることになるとは。
それを悟られないように深呼吸して、なんとか心を落ち着けた。
心晴と七海が友人であることは社内の誰にも話していない。隣にいる古宮でさえ、そのことは知らないのだ。
会議室は小さい空間で、椅子が対面で三つずつテーブルを挟んで並んでいた。
「今日いらっしゃるのはコンサル企業の担当者で、投資に対してどれほどの成果が得られるかの市場調査を依頼してる。とりあえず横で話だけ聞いておいて」
九時五十五分になり、ふたりで座って待っていると扉がノックされた。
「お客様がいらっしゃいました」
事務の女性が来客を会議室まで案内して来た。
「失礼いたします」
頭を深々と下げて現れたのは、小動物のように可愛らしい女性だった。年齢はおそらく心晴より下で、ぱっちりした目に黒髪ショートのボブスタイル、ベージュのインナーカラーが綺麗だ。
「お待ちしていました。本日はもう一名同席しますので、まずはご挨拶を」
「企画広報部の天白です。よろしくお願いします」
「株式会社ロイヤルキャピタルの
心晴は社会人として初対面の相手と必ず行われる儀礼、名刺交換を手慣れた様子で終えた。
名刺には蓮見
あらかじめ準備しておいたペットボトルのお茶を陽世に渡して席についた。
「次回の報告は弊社の統括本部長からさせていただきます。その際は私も同席いたします」
「では、次回はおふたりいらっしゃるということですね。噂に聞く凄腕の方とお会いできるのは楽しみです」
株式会社ロイヤルキャピタルの統括本部長は業界で名の通った人物だ。彼が目をつけたところには必ずビジネスチャンスが転がっているという。
心晴はその人物像を四十歳のダンディな紳士だと予想した。常に冷静で感情を仕事に持ち込まない完璧な人間。
「そんなに構えないでくださいね。年齢も天白さんと同じくらいですから」
「あ、そうなんですか? もっとベテランの方かと」
「仕事は確かにできますし、私も目標にしていますが、見た目は年相応の青年です」
表情が固かった心晴に陽世は笑いかけた。
噂がひとり歩きすることはよくあるが、彼は親しみやすいどこにでもいるような青年だ。ビジネスになるとその才能は大きく発揮されるが、だからといって他人に厳しいわけではない。
今日の打ち合わせは心晴の顔合わせ程度で、本質の話は何もなかった。
次回の調査結果の報告は今週の金曜日、社長と広報企画部長も参加する。
金曜日、長年心晴にしとしと降り続いた雨がその強さを増すことになる。
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