第6話 傘をさして

 「ただいま」



 心晴は仕事を終えて帰宅した。ひとりで暮らしているので誰もいないはずのワンルームに帰宅を知らせるのが日課になっている。


 高校を卒業して下宿したときは寂しかった。それを紛らわせるためにひとりしかいなくても「ただいま」と言ってから部屋に入るのが決まりになってしまった。


 今となっては寂しさなど微塵もないが、その癖だけが残ったのだ。


 心晴はスマホを確認したが、新着メッセージの通知はなかった。今日会社で風早七海、本名滝沢七海とブランドモデルの契約を視野に入れていることを聞き、友人として彼女に連絡をしたのだが、忙しい彼女から返信はない。


 別に七海と比べて自分がちっぽけだと思うことはないものの、日本中の人から認知され、可愛い、綺麗だと言われていることは羨ましく思う。慶應に通っていたときも、一緒にいると人々の視線はすべて彼女に向かっていた。


 偶然授業で一緒になった男子学生から話しかけられ、楽しいと思っていると、彼らの目的が七海だったなんてことは幾度となくあった。


 心晴は七海と仲がいい女の子。あの子に近づけば七海とも仲良くなれる。


 当時は七海のストラップのような扱いを受けていい気はしなかったものの、今となってはそれが社会の縮図だと冷静に達観できる。


 心晴はまずシャワーを浴びることにした。


 じめじめするこの季節は髪がベタつくから、帰宅したらすぐにシャワーを浴びて髪と身体を洗いたくなる。


 それが済んだらご飯を食べる。冷蔵庫にある程度の食材は買ってある。それらで簡単にできるものを作って済ませるだけのつまらない毎日だ。


 ひとりで外食に行くこともないし、たまに先輩の古宮が誘ってくれたときに外で食事をとることがあるくらいだ。


 その後はテレビを見て眠くなったら寝る。


 つまらないほどに同じ毎日を繰り返す。


 テレビでバラエティを見ていると、テーブルの上にあるスマホが着信した。相手は七海だった。



 「もしもし」


 『心晴、久しぶり。メッセージ見たら声が聞きたくなっちゃった』


 「メッセージ返す暇もないくらい忙しいのかと思ってた」


 『休みは少ないけどね。親友と電話する時間くらいありますよ』



 七海はどれだけ有名になっても心晴を一番の親友だと言ってくれる。彼女は学生の頃からまったく変わらない。



 『それで、心晴は仕事どうなの? 本社でやりたいことはできてる?』


 「楽しいよ。少しずつ大きい仕事も任されるようになってる」


 『そうなんだ。頑張ってるんだね』


 「七海の頑張りには到底及ばないよ。ドラマに映画に大変でしょ」


 『好きだからできてるけど、確かに大変』



 映画やドラマの撮影は期間が被ることもあるそうで、役作りを同時進行ですることもあるらしい。さらに、番宣のためにいろいろな番組に出演したり、イベントで登壇することも重なってくる。


 本当に大変な仕事だ。心晴には務まらない。



 『恋の方は?』


 「え?」


 『恋よ。職場にいい人いないの?』


 「いない。前にも言ったけど、先輩とたまにご飯に行く。それくらい」


 『先輩はそれがデートだと思ってるのかもよ?』


 「それはないんじゃないかな。いつもふたりではあるけど、ただご飯を食べてそのまま解散するだけだし」


 『心晴はどう思ってるの? 先輩のこと』


 「頼りになる優しい先輩。それ以上でも以下でもない」



 七海は『つまらないなあ』と愚痴をこぼした。


 確かに古宮は三十三歳で独身、彼女もいないと食事で話してはいたけれど、だからと言って休日を一日共にするようなことは一度もなかった。仕事の後にご飯でも、くらいの軽いお誘いを受けて一緒に行くだけの関係だ。


 恋に発展しそうな気配はまったくない。



 『少し落ち着いたらご飯行こうよ』


 「うん、行こう。芸能界で有名なお店でも連れて行ってよ」



 とは言うものの、結局いつもの場所になるのがオチだ。


 人は冒険よりも安心を好む生き物なのだ。



 『任せて。情報はたくさん仕入れてるから。そろそろ行かないと』


 「楽しみにしとく。またね」


 『うん、また』



 通話を終えると心晴はスマホをテーブルの上に置いた。午後十時でも電話の向こうではたくさんの人の話し声が聞こえた。


 撮影中なのか、事務所にいるのかは定かじゃないが、七海はまだ仕事をしているようだ。


 業務時間という概念がないのかもしれない。移動も一般的な社会人より多いし、拘束時間は民間企業であればブラックと呼ばれるものだ。


 その分報酬は高額で、お姫様のような扱いを受けることができる。私のようにある程度の仕事である程度の給料がもらえれば幸せな人種では、耐えられない世界だろう。


 私は普通の世界で普通に生きていければそれでいいのだ。別に有名になりたいわけでもセレブになりたいわけでもない。


 いずれ恋愛して結婚できたら、それはそれでいい人生かもしれない。だけど、無理はしたくない。


 今はまだ、この生活に満足しているから。


 心晴は翌日の仕事に備えて眠ることにした。スマホを充電し、アラームを設定して夢の中へ。


 明日は雨だ。

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