第36話 月は微笑む

 三ヶ月後、十二月の街は気温が一段と下がり、今冬は厳寒だと連日報道されていた。


 もうすぐクリスマスで、東京の街も街路樹にイルミネーションが施される時期になった。


 日曜日、心晴は凍える気温の中、アンジェのコートを着て愛しい彼が現れるのを待っていた。


 周囲の通行人を見ていると、男女問わずにアンジェを着ている人を何人か見つけた。


 株式会社シエルが社運を賭けた投資が見事に成功した結果、『アンジェ』は若者の間で一躍有名になり、街中で風早七海がアンジェを着て微笑んでいる広告をよく見かけるようになった。


 オンライン動画の広告から開始した風早七海との契約は、今や雑誌の広告だけでなく、そこに至った経緯などを古宮と心晴が取材されて記事になったほどだった。


 古宮と心晴の写真が掲載されたその雑誌を七海がSNSで、「頑張っている人たちがいるから、私はアンジェを愛しています」と投稿した。その結果、雑誌の売り上げが伸び、連動するようにアンジェの知名度もうなぎ上り状態だ。


 その手柄は弥勒がいたから成し遂げたことだが、彼に感謝を伝えてもあまり喜んではくれなかった。


 その代わりに、「大好き」と伝えると彼は幼い子供のように喜んでくれる。



 「心晴、お待たせ」


 「あれ、向こうから来ると思ってた」


 「飲み物買って来た。心晴の分もある」



 そう言って弥勒が示した選択肢は、緑茶か玄米茶だった。


 暖かいそれらは、寒空の下で白い湯気を吐く。



 「やっぱり両方お茶なんだ」


 「心晴は緑茶派だったかな?」


 「今日は玄米茶の気分」


 「あれ?」



 二択を外した弥勒は、残念そうに玄米茶を心晴に渡した。



 「弥勒。この十年、何も変わっていないと思ったら大間違いだよ」


 「うん、確かに」


 「それじゃ、行こっか」



 心晴は弥勒の手を取って、主導権を握った。


 ふたりの関係で変わったことといえば、正式に交際を開始して弥勒の名前を呼び捨てするようになったことと、いつも彼に任せきりじゃなくて心晴自身も意思を持ってデートプランを作っていくこと。


 仕事に成功した心晴は、恋人との関係も成功に導いて人生を楽しみたいと考えている。


 だから、今日はアンジェの店舗に行くと決めた。


 私たちが出会ったきっかけのアンジェ、心晴がほしい新作もあるし、弥勒に着てほしいメンズのライナップも増えた。


 コーディネートにあまり興味を持たない彼も、恋人がアパレル関係の仕事をしていることで、最近は服の組み合わせを楽しむようになった。



 「まずはレディースからね」


 「ご自由にどうぞ」



 ショッピングに時間をかける心晴に弥勒が文句を言ったことは一度もない。


 なぜか訊ねると、「心晴といる時間はいつも短く感じるから、多少退屈に思ってる方がいいんだよ」と返された。


 なるほど理にかなっている、と納得したものの、やはりショッピングを待たされる時間は退屈らしい。


 メンズのエリアに移動して弥勒に似合いそうなコートを探しながら、心晴は新作を直に手に取って商品のリサーチを欠かさない。



 「どう? 何かいいキャンペーン思いついた?」


 「デート中は仕事の話はしないって約束でしょ?」


 「これは失礼」



 そう、プライベートに仕事の話は持ち込まない。それがふたりのルール。


 風早七海との契約が実現したことで、ロイヤルキャピタルは請け負っていたプロジェクトに対する報酬を受け取ってシエルとの契約を終了した。


 ふたりが仕事で会うことはなくなったのだが、心晴の仕事を知ってしまった弥勒はときどき気になって彼女に順調かと訊いてしまう。


 それがいいムードのときなら雰囲気を壊すことになるから、心晴はふたりの時間は仕事を忘れて楽しもうと提案したのだ。


 心晴と弥勒はそれぞれ気に入った服を購入して、その後もいくつかの店を回って弥勒の部屋に置く雑貨なども買った。


 今日は外食をせずに弥勒の部屋で心晴が手料理を振る舞うことになっていたので、帰りに買い物をして材料を買った。


 部屋に入るとすぐに心晴はキッチンに向かい、弥勒は何を作っているのか確認しようとするが、できてからのお楽しみだとキッチンを追い出された。


 振り返ってリビングを覗くと、彼は仕事用のタブレットを手に何か調べ事をしているようだ。


 結局彼は時間があれば、仕事のことばかり考える。でも、それについて文句を言うつもりはない。


 彼は大変な仕事をしていて、それなりの地位を持っている。その対価として報酬をもらい、ふたりの時間のためにお金を使ってくれる。


 彼がいればお金なんて、と口では言っても、お金がなければ将来を考えることもできないのが現実だ。


 だから、彼とこれからできるたくさんの経験と楽しい時間のために、一生懸命仕事に励むことは、お互いのためなのだ。



 「できたよ」



 完成した料理をテーブルに運ぶと、弥勒はタブレットを片づけて、「やったー」と喜んだ。


 できた料理を頬張る彼を見ていると、これまでの十年が報われた気分だった。


 食事を終えて、食器を洗い終わると彼に呼ばれて心晴はベランダに出た。


 真冬の夜は凍えるように寒いが、アンジェのコートはデザインと機能性を兼ね備えた優れもので、気温が一桁でもしっかりと身体を守ってくれる。



 「今日は月が綺麗だな」



 見上げた空に煌々と満月が顔を出していた。澄んだ空気の中で淡い光がふたりを照らす。



 「ずっと、月が苦手だった」


 「俺のせい?」


 「そういうわけじゃないけど、月を見たタイミングが悪かったんだと思う」


 「法としてはショックだな。これからは好きになれそう?」


 「うん。きっとなる。すごく綺麗だもん」



 私が右隣にいる弥勒に顔を向けた瞬間、彼の唇が私のそれにそっと触れた。


 ほんの一瞬、彼は何事もなかったように再び月を見上げた。



 「近々引越そうかと思ってて」


 「この部屋気に入ってるんじゃなかった?」



 弥勒は広い部屋じゃなくても、ひとりで住むだけのスペースがあればいいと言っていた。そして、この部屋は立地や間取りが彼の希望通りだと聞いていた。



 「その、ふたりには狭いから・・・」


 「え?」


 「一緒に探そう。もう少し広い部屋を、さ」


 「うん、そうだね。もう少し広くないとね」



 これからはずっと、輝く月が大好きになる。


 だって、隣で彼が微笑んでいてくれるから。

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