雨上がりに月は微笑む

がみ

長雨

プロローグ

 『あなたに忘れられない人はいますか?』



 天白あましろ心晴こはるはテレビで流れている音声を聞き流した。少し遅れてその言葉に反応した彼女はテレビに目をやったが、すでにそのコマーシャルは終わっていた。


 そんな台詞があるものは、おそらくドラマか映画の宣伝だろう。それも、高い確率で恋愛もの。


 二十八歳になった心晴は仕事に邁進するビジネスウーマン。昨今は晩婚化が進んでいるとはいえ、アラサーになると結婚について考える人は増えてくる。


 結婚に興味がないわけじゃない。恋愛だってできるものならしたい。


 でも、できない理由があった。


 あの人のことが忘れられないからだ。


 たったひとつの片想いに囚われ続けるなど愚かだと言う人がほとんどだろうが、私にとってのそれは簡単に忘れられるものじゃない。


 心晴は都内にある賃貸のワンルームにひとりで暮らしており、本日もこれから仕事に向かう。


 二十代としては平均的な収入を得ているはずだが、決して裕福なわけではなく、生活費も使いすぎないように気をつけている。


 洗面台の鏡で髪型を確認しながら、ライトブラウンのミディアムヘアで毛先にパーマをあててふわふわになるように毎朝セットする。


 どれだけメイクを頑張ってもモデルや女優のようにはなれないけれど、女として周りから綺麗だと思われたいのは十代のときから変わらない。


 元がよければさらに綺麗になれるのだろうが、私は彼女とは違う。身の丈にあったクオリティで満足するしかないのだ。



 「そろそろ行かないと」



 心晴はテレビの電源を切って仕事用のトートバッグを持つと靴を履いて部屋を出た。


 オフィスが入る有楽町まで山手線で二十分の道のりだ。通勤時間は人が多く、最近では通勤集中を避けるためにフレックスタイムを導入する企業も増えているようだが、心晴の会社は決まった勤務時間があった。


 いつも思うことは、男よりも女の方が仕事に行くのも大変だということだ。


 業務内容に差があるのはそれぞれの事情だろうが、男は毎日スーツかそれに準ずるオフィスカジュアルな服装であるのに対して、女はメイクをして服装だっていつまでもリクルートスーツというわけにもいかない。


 プライベートの私服にこだわりを持つのと同じくらい、ビジネスの服装にも気を使わなければならない。


 それは誰かのためにやっていることではない。だけど、それを諦めたときは女をやめているなどと失礼な陰口を叩かれることになるのだ。


 満員電車に揺られて目的の有楽町に到着した心晴はホームの広告に『あなたに忘れられない人はいますか?』と洒落たフォントで書かれたポスターが目に入った。


 さっきテレビで流れていたのはこれだったのか。


 近々公開される恋愛映画のようだ。主演は超売れっ子女優の風早かぜはや七海ななみで、相手役は最近テレビや雑誌でよく見る男性アイドル。


 まさか彼女がここまで有名な女優になるなんて思っていなかった。同い年の彼女をテレビや雑誌で見るたびに誇らしい気持ちになる。


 私は本人が認めているファン第一号だ。最近忙しくて最新作のチェックが疎かになっていた。


 そう、私が仕事に生きられるのも彼女という盟友がいるから。


 両親は結婚を急かすようなことは言わないものの、やはりひとり娘にはいずれ結婚してほしいと思っているだろうし、孫の顔を見たいというのが本音だろう。


 たまに母から連絡が来て地元の誰かが結婚した、出産したと聞くと『お前はまだ予定がないのか』とプレッシャーをかけられているようで申し訳ない気持ちになる。


 無意識にため息が出た。


 本日の天気は曇りのち雨、夜には晴れるそうだが綺麗な月が見れるだろうか。


 あの日見た綺麗な月は、今でもしっかり記憶にある。鮮明な写真のように思い出したくないときでさえ顔を出してくる。


 あれからもう十年か。

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