第3話 月が綺麗ですか
日曜日、午前八時五十分。
心晴は作戦会議の末に決めたコーデに身を包んで藤沢駅の改札前に到着した。休日の駅は人で賑わっており、人を探すのも苦労する状況だ。
約束の時間まではまだ十分ある。これまでの経験で弥勒は五分前にならないと現れない。
海外で生活していたからこそ時間にルーズな一面があるのかもしれないが、それでも遅刻することは一度もなかった。
「お待たせ」
遠くばかり見ていた心晴のすぐそばまで彼が近づいていたことに気がつかなかった。
「向こうから来ると思ってたからびっくりした」
「飲み物でも買っとこうと思ってさ。もちろん、心晴の分もある」
弥勒は二本持っているペットボトル飲料のどちらがいいか心晴の目の前で揺らした。
「両方お茶なんだ」
「緑茶か玄米茶か」
「じゃ、緑茶がいい。ありがと」
高校生らしくないチョイスではあったものの、心晴は素直に買って来てもらったことに感謝の意を示した。
弥勒はなぜか一歩下がって距離を取り、心晴の身体を見つめる。
「え、なんか変?」
「いや、今までも心晴の私服見たことあったけど、今日は雰囲気が違うなと思って。よく似合ってる」
「あ、ありがとう」
心晴の体温は急上昇していくが、顔が赤くなることを抑えるために深呼吸をした。今からこうでは今日一日心臓が持ちそうにない。
私の努力が認められたようで、舞い上がってしまいそうだ。今度七海にご飯を奢ろう。
「そんじゃ、行きますか」
「うん」
目的の場所の八景島シーパラダイスまでは藤沢駅から電車に揺られること約一時間の道のりだ。さらに入場券の購入に二十分ほどかかり、午前十時三十分にふたりは入園した。
見渡す限りカップルや家族連れがおり、この中にいれば心晴と弥勒も交際しているカップルと見なされることだろう。
「何から乗るかね。心晴は絶叫系大丈夫な人?」
「そんなに得意じゃないけど、乗れないことはないかな」
「じゃ、ローラーコースター行っちゃいますか」
弥勒は人混みの中をどんどん歩いて進んで行く。その背中を追ってペースを合わせて歩く心晴だったが、歩幅が違う男性について行くのは大変だった。
「心晴、手」
「え?」
弥勒に言われるままに差し出した手を握られ、ふたりは人混みの間を抜けて目的の場所に向かった。
突然手を取られた心晴の心が乱れていることに彼は気づいていない。
弥勒が最初に選んだアトラクションは八景島シーパラダイスを代表するサーフコースターリヴァイアサン。滑走するコースが海の上に飛び出している珍しいアトラクションだ。
並んでいる人はそこまで多くなく、十分ほどの待ち時間で順番がやってきた。
コースターが一周する時間は約三分。スリル満点の海上の旅はあっという間に終わった。
「いやー、思ったより怖かったな」
「そうだね。久しぶりに乗った」
「乗ったことあったんだ」
「中学の頃友達と来たときに」
高校入学まで海外にいた弥勒に過去の話をしたことはあまりなかった。逆に、彼が海外でどこにいたのかもあまり詳しくはない。
知らないことはまだまだたくさんある。
これから仲良くなって、お互いのことを知れたらいいな。
午前にいくつかアトラクションを回ったあと、ふたりは食事を取った。午後からもアトラクションを回りつつ、この場所にはもうひとつの目的があった。
八景島シーパラダイスは遊園地と水族館の両方が楽しめるアミューズメントパークだ。午後二時にふたりは水族館へ移動した。
楽しい時間があっという間に過ぎるとは正確な表現で、弥勒と共に過ごす時間は普段の数倍の速さで流れていく気がした。
それだけ楽しんでいる証拠なのだが、彼といる時間が短く感じるのはありがた迷惑だ。
体力がなくなるほどに楽しんだふたりは、海に面した広場で柵にもたれかかって沈みゆく夕陽を眺めた。
「今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ。心晴といる時間は本当に楽しいよ」
夕陽のオレンジ色受けて弥勒の表情はとても柔らかく、微笑んでいた。
いよいよ待ちに待った瞬間が来る。
心晴は緊張を悟られないようにゆっくり深呼吸をして、弥勒が例の話をするタイミングを待った。
「電話で伝えたことなんだけどさ、話しておきたいことがあって」
「うん」
弥勒は少し間を空けて、夕陽を眺めながらその言葉を口にした。
「高校卒業したら、海外の大学に進学しようと思ってる」
「海外に? 留学とか?」
期待していたものとはまったく違う言葉に心晴は混乱しつつも彼が伝えたいことの本質を探ろうと質問した。
「いや、ロンドンの大学に入学するつもり。俺の両親は世界中いろんな場所で仕事してるんだけど、近々ロンドンで長期滞在するらしい。だから、そのタイミングでロンドンに来ないかって言われてて」
「大学を卒業したら、日本に戻って来るの?」
「それはないかな。親が日本人だから日本語には不自由しないけど、文化とかいろいろ考えたら海外の方が生活が長い分馴染みやすいし」
弥勒が伝えたかったのは、心晴への愛じゃなく別れだった。
まだ、この先にいい話があると期待したかった。
「それを伝えるために誘ったの?」
「ああ。日本に戻って来て最初にできた友達が心晴だったから。でもまだ卒業まで一年以上あるし、それまでは日本にいるからさ」
舞い上がっていた自分が恥ずかしい。
もし、弥勒が告白してこなければ私が、なんて言っていた言葉さえ無駄だった。別れを告げられて告白なんてできるはずがない。
「そうなんだ。あと一年よろしくね」
心晴は感情を押し殺して喉の奥から絞り出した声でその一言を発した。
そのあと、彼とどんな話をして帰って来たのかは覚えていない。ただ、その日の帰り道で見上げた夜空に浮かぶ満月は一生忘れないだろう。
空を見上げて、私は未来の自分に訊ねた。
「あなたに忘れられない人はいますか?」
私は彼を忘れて、前に進めるだろうか。
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