第22話 高温多湿

 「帰ろう。送って行くよ」



 業務が遅れた分一時間ほど残業になったが、本日の仕事をすべて終えた心晴は退社の準備を開始した。


 古宮はすでに業務を終えていたようだが、弥勒に「天白さんは僕が守ります」と宣言したことを実行しようとしている。


 心晴が業務を終えるまで仕事をしているをして待っていたようだ。


 会議室で弥勒と電話をしていた心晴からスマホを奪い取って、彼女に近づくないと言った古宮の表情には今まで見たことがない怒りがあった。


 一方的に古宮が電話を切ってしまったので、心晴は急いで弥勒に電話をかけ直したが、彼はその電話を取らなかった。履歴に残っているはずの着信にかけ直してくることもなかった。


 あんな言い方をしたのだ。仕方ない。


 弥勒は正しいことをした。理不尽な出来事に苦しめられていた清掃員と、彼を救おうと後先考えずに飛び込んだ部下を守ったのだ。


 その結果、逆恨みされて危険に晒されているにもかかわらず、彼は私を心配してくれた。巻き込んでしまったと自分を責めていた。


 そのきっかけを作ったのは心晴自身なのに。


 お礼なんていらないと断っていた弥勒にどうしても会いたいと自らの欲を優先した結果、こんなことになってしまって、最終的には彼を傷つけるようなことになった。


 古宮が心晴のためにしたことだと理解はしていても、あんな言い方をされては我慢できなかった。


 会議室で感情的になって彼に対して苦情をぶつけていると、その声が外まで聞こえていたらしく、報告を受けた新宅が部屋に飛び込んで来た。


 彼女には仕事のことで意見が合わなかったと説明しておいたが、いつも温厚な心晴がここまで感情的になっているところを見たことがなかった同僚を心配させることになった。


 何をしてもすべてが裏目に出ている。


 できれば古宮と一緒に帰ることは避けたかったが、彼は彼で自らの言葉に責任があると考えているはずだ。


 それに、心晴が狙われる可能性もないとは言い切れない。


 気まずいふたりはオフィスを出て、エレベーターに乗り込んだ。



 「ごめんね。勝手なことをして。大人げなかったよ」


 「私の方こそ、感情的になってしまって。すみませんでした」



 やっと交わした言葉もこれだけで終わってしまった。


 エレベーターを降りて有楽町駅へと向かう。梅雨が明けて本格的な夏がやってきた東京は、午後七時になっても気温が高く、それでいて湿度も不快なレベルだ。



 「本当はご飯食べてから帰りたいんだけど、外食は避けた方がいいよね」


 「そうですね。刑事さんからも言われてますし。大人しく帰ります」



 昨日交わした約束は、果たせなかった。


 今朝ひとりで乗っていた電車、今は隣に古宮がいる。


 スマホを取り出して待受画面を確認するも、新着メッセージはない。


 弥勒のことばかり考えている心晴を横目で見る古宮。彼の気持ちはいつまで経っても届かない。


 最寄り駅で電車を降りると、心晴の住むマンションまでは徒歩で移動する。


 その時間も、会話はなかった。


 ひとりで帰っていたら、背後を気にして落ち着かなかっただろう。だが、古宮と一緒にいたら別の意味で落ち着かなかった。


 何事もなくマンションのエントランスに到着すると、心晴は振り返って送ってくれた古宮にお礼を伝えた。



 「明日の朝迎えに来るから、また連絡するよ」


 「朝は大丈夫ですよ。明るいし、人通りも多いですから」


 「迷惑でも来るよ。なんなら後ろから見守ってる」


 「それじゃ、古宮さんがストーカーじゃないですか」


 「あー、それは駄目だね」



 心晴は思わず笑った。その様子を見ていた古宮も微笑んだ。


 お互いの笑顔を見たのが随分ひさびさに感じる。



 「本当にありがとうございました。おやすみなさい」


 「ねえ、天白さん」



 オートロックの扉を解除しようとしたとき、古宮に名前を呼ばれて心晴は振り返った。



 「法月さんのこと、好きなの?」


 「え、突然なんですか?」


 「法月さんとはじめて会ってから、まだそんなに時間も経ってない。だけど、いつも彼のことばかり考えてる」


 「そんなことないですよ」


 「あるよ。お酒を飲んで迷惑をかけたのは僕なのに、天白さんはお礼がしたいって聞かなかった。だったら一緒に行こうと言っても、法月さんとふたりで会いたいみたいだったし」


 「風早七海さんの件で何か話が聞けたらと思ったんです。法月さんは有名なコンサルだって言ってたじゃないですか。じっくり話を聞けたらいいなって」


 「違う」



 心晴がどれだけ取り繕っても、古宮は一切妥協しようとなかった。それほど自論に自信があるようだ。



 「天白さんは法月さんのことが気になってる。出会ってからまだわずかの時間で彼に惹かれてる。僕とは二年以上一緒にいるのに」


 「それは、どういう?」


 「僕は天白さんが好きだ。ずっと一緒に仕事をしてきて、君にとってはただの先輩だったかもしれないけど、僕にとっての君はただの後輩じゃない」



 心晴はこの場から逃げ出したいと強く願った。しかし、古宮の真剣な眼差しにその選択はできなかった。



 「この前、一緒に映画に行けてとても嬉しかった。だけど、あのときも偶然会った法月さんのことばかり気にしてた。どうしてあいつばかりって思ってた。だから君が彼のせいで危険な目に遭うことが許せなかった」



 返す言葉がない。


 真実を語れば古宮は納得してくれるだろうか。



 「ごめん。とにかく明日の朝、また迎えに来るから。おやすみ」



 一方的に言葉を投げつけた古宮が、また一方的に話を終えて心晴に背中を向けた。


 気持ちが乱されたまま部屋に入った心晴は、じめじめした心を洗い流すためにシャワーを浴びた。


 なんとなくわかっていた気がする。古宮が心晴に向けていた感情がただの後輩に向けたものじゃないことに。


 でも、あえて見ないようにしていた。


 弥勒が巣食った気持ちのまま、他の人を愛することなどできなかった。そんなとき、彼は突然私の前に現れた。


 悩み事が多すぎる。


 心晴は頭から暖かいお湯を浴びながら、ため息をついた。

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