第24話 オレンジの滴

 また一週間が終わった。


 退勤の時間になり、心晴はコンピュータの電源を落とした。今日も隣にいる先輩の古宮と一緒に自宅へと向かう。


 彼と言い争ったことによる気まずさはほとんどなくなった。


 毎日、朝はマンションまで迎えに来てもらって、退勤後は部屋まで送ってもらっている。



 「帰ろう、送って行くよ」


 「はい、お願いします」



 ふたりはエレベーターに乗ってロビーまで降りると、有楽町駅へと歩いた。刑事が来てから三日経ったが、特に変わったことはなく、ストーカーが現れることもなかった。


 亜希から電話が来た夜、彼女に弥勒との関係を明かした。高校時代のクラスメイトで、ある出来事のせいで彼と疎遠になってしまったことを。


 隣にいる古宮には、まだ本当のことを伝えていない。


 彼が弥勒に対して「近づくな」と言ってからというもの、弥勒と連絡が取れなくなった。メッセージも送ったし、電話もしたが、反応はまったくない。


 きっと怒っているんだろう、と考えた。いや、もしかしたら都合がいいと思っているかもしれない。


 彼は私を避けようとしていたから。


 古宮との帰り道は安心できるし、彼には感謝している。でも、隣にいるのが弥勒だったら、とどうしても考えてしまう。


 最寄駅に到着したふたりはいつもの道を歩くが、途中で古宮がコンビニに寄りたいと言った。



 「ごめん、今日お腹の調子が悪くて。ちょっとだけ待っててくれる?」


 「マンションまでもう少しですし、全然ひとりで帰れますよ」


 「それは駄目だ。油断してるときに何かあるかもしれない。すぐに戻るから、絶対待ってて。いい?」


 「わかりました。急がなくていいですから」



 古宮はコンビニに入ると素早い動きで方向を変えてお手洗いに向かった。


 思い返すと今日の彼は珍しく何度も席を離れていた。体調が悪いときにわざわざ送ってもらうのも申し訳ない。


 コンビニの前で心晴はスマホを確認したが、いまだに弥勒から連絡はない。亜希に弥勒の様子を聞くために電話することもはばかられるし、モヤモヤした気持ちだけが彼女の精神を蝕んでいく。


 古宮から告白された翌朝、彼は何事もなかったかのように心晴を迎えに来てくれた。そして、それ以来その話は一切出なかった。


 もうどうしていいかわからない。


 高校、大学、社会人になっても、これまでずっと男の人と縁がない生活だった。友人はいたが、告白されたことはなく、恋愛関係になることもなかった。


 そんな私の前に突然忘れられない人が現れ、心を揺さぶられた直後に先輩から告白された。


 モテ期というものだろうが、このタイミングでそれを望んではいなかった。


 ありがたいことだけど。


 視界の隅で人が腕を振り上げた。


 その方向を見た瞬間、何かを投げつけられてオレンジの塗料が飛び散る。勢いよく心晴の左肩に当たったそれはダメージを与えると、着ていた服と顔に塗料をつけた。


 それを投げつけた人物は帽子とマスクで顔が見えないが、身体の大きさから男で、心晴の前でこちらを向いて立っている。


 恐怖で声が出ず、周囲にいた人たちも何事かとこちらを見ているが、巻き込まれたくないのか誰も助けようとする者はいなかった。



 「何やってるんだ!」



 コンビニから出て来た古宮が大声で威嚇しながら心晴に駆け寄った。


 その声に反応した男が踵を返して逃走した。



 「大丈夫? 怪我してない?」


 「はい、怪我はしてないですけど、服が・・・」



 古宮がハンカチをポケットから出して心晴の顔を拭くと、オレンジの塗料は消えた。しかし、服についたものは取れそうにない。


 男が投げたのは防犯用のカラーボールのようだ。逃走する犯人の足元に向けて投げつけて、逃走した人物である証拠を残すためのものだ。


 本来は人に直接ぶつけるものじゃないし、洗ったとしてもその塗料は特殊な光に反応するようにできている。


 古宮はすぐに茅ヶ崎という刑事から受け取った名刺の番号に連絡を入れた。心晴は部屋に帰って早急に安全を確保するように助言された。


 後で心晴の部屋に行くからと住所を聞かれて、古宮と心晴はマンションに向かった。コンビニからの道のりですれ違う人たちは、彼女をちらちらと見る。


 これだけ盛大にオレンジ色の塗料が服についていれば仕方ないことだが、まるで逃走犯になった気分だ。



 「刑事さんが来るらしいから、それまで僕も待ってようか?」


 「いや、大丈夫・・・と言いたいところですけど、ちょっと心細いです」


 「じゃ、それまで外で待ってるよ」


 「さすがにそれはちょっと。部屋に入ってください。コーヒーくらいしかないですけど」


 「へ、部屋に?」



 古宮は内心嬉しい誘いだが、紳士としてふたりのときに女性の部屋に入ることを躊躇した。



 「刑事さん来るまでどれだけかかるかわかりませんし」


 「そうだよね、お邪魔します」



 誘惑に負けた自分の意志の弱さを恨んだが、結果的には欲望が満たされることになった。


 これだけは言っておきたいが、別に変なことは考えていない。


 オートロックのドアを通り、エレベーターに乗って廊下を進み、部屋に入る。


 古宮の心臓はトレーニングをしているときと同じくらい大きく拍動した。



 「服を着替えますので、適当に座っててください。後でコーヒー淹れます」


 「はい、座ってる。何も触りません」



 借りて来た猫のように静かに、何もせずに心晴の着替えを待つ。これまでの人生でここまでドキドキしたことはないかもしれない。


 そうじゃない。心晴は怖い思いをしたのだ。


 僕は何を考えているんだ。


 廊下の方向からガサゴソと音が聞こえてくる。心晴が着替えている音すら聞いては失礼だと、古宮は両耳を押さえた。


 まるで中学男子のような考えばかりが浮かんでくる。



 「落ち着け、僕」


 「何か言いました?」


 「いや、何も!」



 コーヒーを淹れてもらい、ふたりで何気ない話をしていたら茅ヶ崎と山下がマンションにやって来た。


 心晴と古宮はオートロックのあるマンションのエントランスに向かい、先ほど起こったことを説明した。



 「防犯カメラはこれから当たりますが、帽子とマスクをしていたなら証拠としては難しいでしょう。引き続き捜査をしますので、くれぐれもお気をつけて」



 茅ヶ崎はそう言い残して捜査に向かった。


 心のどこかで大丈夫だと思っていたが、古宮は心晴と通勤を共にする選択をした過去の自分を褒め称えた。

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