第25話 積年の雨
週が明けた月曜日、弥勒は急遽有給休暇を取得した。
日曜日の夜に電話で報告を受けた際に亜希が何をするつもりか確認したものの、彼は疲れたから休みたいだけ、と言っていた。
「嫌な予感がする」と亜希は言ったが、一方的に電話を切られてから何度電話をしても彼は取らず、メッセージにも既読はつかなかった。
せっかくの休日にリフレッシュをしたいなら執拗に連絡をすることは迷惑になるのだが、状況が状況なだけに心配だ。
金曜日の夜、茅ヶ崎から連絡を受けた亜希は、心晴が帰宅途中にカラーボールを投げつけられる被害を受けたことを聞いた。弥勒に伝えるかを悩んだが、彼は隠し事が嫌いだ。
後で恨みを持たれると関係にひびが入る可能性があると判断して本当のことを彼に伝えた。
幸い怪我はなく、古宮が一緒にいたことで着ていた服を捨てるだけで済んだらしいが、これで犯人は心晴ですらターゲットに入れていることが判明した。
それを聞いて弥勒が休暇を取ることを決めたのであれば、何かするつもりでいるのかもしれない。
茅ヶ崎に相談したが、部屋に彼はおらず、足取りがわからないと言う。危険であるため、亜希と陽世には会社から動かないように指示された。
何事もなければよいのだが。
陽世は弥勒がいないことで会社から出ることができず、取引先との連絡はすべて電話とメール、必要であればビデオ通話のアプリを使って業務に当たっていた。
いつも弥勒が座っているデスクに目をやっても、そこに彼がいないことで自然とため息が出た。
仕事をしていてもまったく集中ができず、株式会社シエルから依頼された風早七海の件も一向にアイデアが浮かばない。
陽世がした行動がこの状況を招き、取引先の心晴にも迷惑をかけている。
それに加えて弥勒と心晴の過去を知り、さらに自分を責めることになった。
「陽世ちゃん、お客さん来てるよ」
受付担当の女性社員が来客を伝えるためにデスクまでやって来た。
「今日はアポイントないはずなんですけど、どちら様ですか?」
「谷垣さん」
「谷垣さん? 誰だろう」
「知らない人? まだ若い男の人」
「聞いたことあるような、ないような」
顔を見れば思い出すかもしれない。陽世はデスクを離れてオフィスの入り口へと向かった。
その途中で谷垣という名前を思い出そうと努力したが、やはりわからない。
扉を開けて待っている人を見た瞬間、思い出した。しかし、ふたりきりで会っていいものだろうか。
迷いを見せた陽世に谷垣は深くお辞儀した。いつも見ている姿と違い、真夏なのにスーツ姿でネクタイを締めている。
「ご迷惑をおかけしました。今日は謝罪に」
「ええっと、とりあえずどうぞ」
陽世は空いている会議室に谷垣を通して少し待ってもらい、代表取締役室にいる亜希に同席してもらうように頼んだ。
亜希は「一言ガツンと言ってやるわ」と息巻いて陽世と共に会議室へと移動した。
彼女が怒っているのは谷垣がしたことに対してで、彼は先週陽世をストーカーしていた容疑で警察のお世話になった。
「陽世のことが心配だった」と言っていたそうだが、真相はどうなのか。
会議室に入った亜希はわかりやく谷垣を敵視しており、彼女の鋭い視線に囚われた彼は完全に肩が丸くなった。
「今日はどうして陽世に会いに来たの? 自分がしたこと、わかってるわよね?」
「わかってます。してはいけないことでした。怖がらせたことは謝ります」
「もう二度と陽世に近づかないで。次にこの娘を怖がらせたら、私はあなたを絶対に許さない」
谷垣は辛そうな面持ちで亜希の言葉に頷いた。そこに演技は感じられず、彼は心から反省している。それは陽世の目にも明らかだった。
「僕は昔から頭が悪くて、勉強が苦手だったので高校を卒業してから働きはじめました。何度か転職して今は清掃会社で働いています。清掃員という仕事は馬鹿にされることが多いんです。スーツを着たエリートにいつも見下されて、感謝されなくてもいいから、せめて放っておいてほしい。そう思っていました」
語りはじめた谷垣の言葉は、陽世が今まで考えなかったことだった。
東京大学を卒業して、ロイヤルキャピタルに入社した彼女は絵に描いたエリートで、上司にも恵まれた。コンサルをしていると話せば周囲から称賛され、両親も誇りに思ってくれる。
彼女にとって当たり前のことが、谷垣には手の届かない羨ましいこと。
「あの日、掃除をしていたら通路の隅に置いていたバケツを蹴ってスーツが汚れたと怒られて、明らかにわざと蹴ったんです。そういうことは今までもあったから。でも、あの人は僕の人生を否定するようなことを言ってきて。我慢できずに殴るところでした。そのとき、あなたが男性と一緒に助けてくれて、それからあなたは会うと毎回挨拶してくれて、僕のことを人として扱ってくれた」
「あなたも辛かったのね」
話を聞いてた陽世と亜希はいつの間にか彼の言葉に心を大きく揺さぶられていた。
心にゆとりがある人は他人を馬鹿にしない。それが事実であっても、馬鹿にされる側は理不尽に耐えるしかない。
何を反論してもそこにあるのは、自分が劣っているという事実だけだから。
「だから、元気がなかったあなたが心配で、気がついたら会社から出たあなたを追いかけていました。声をかけたら気持ち悪がられると思って」
「そうだったんですね」
「本当にすみませんでした。僕はこのビルの清掃から外れることにします。もしかしたら、会社をクビになるかもしれませんが、やったことへの責任としては当然だと思っています。今日は、謝罪とその報告に来ました」
谷垣が下した決断にこちらが口を出すことはない。
でも、果たしてそれが正解だろうか。
答えはないけれど、彼の決断が最善でないことはわかる。
「会社が処分しないなら、私はそのまま仕事を続けるべきだと思います。谷垣さんの言葉に嘘はないと思いますし、誰かを助ける方法が間違っていたのは私も同じですから」
陽世が行ったことでこれ以上誰かが犠牲になることは避けたかった。それは、弥勒や心晴だけでなく、目の前にいる青年にも願うことだった。
「いや、でも・・・」
谷垣は亜希の顔を見た。
「陽世がいいなら、私が言うことは何もないわ。あなたが真面目に働いていたことは陽世がよく知ってるみたいだし」
安心した亜希は陽世の肩を叩いて会議室を去った。
笑いかける陽世に谷垣は頭を下げて「ありがとうございます」と震える声を喉から絞り出し、こぼれた涙がテーブルに落ちた。
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