警視庁葬祭課26時
紀之貫
第1話 生死の間をいく者たち
いつ頃だったか、世の中は大きく変わっていった。
潮目になったのは、アメリカの若い実業家だった。
飛ぶ鳥落とす勢いの億万長者となった彼は、ある時期からメディアの前で、自分をダ・ヴィンチの生まれ変わりだと吹聴し始めたのだ。
これは神をも恐れぬ大言である。
そもそも、彼自身はモナリザのような絵画を手掛けた訳ではないのだ。彼自身が様々な発明品を世に送り出したわけでもない。
というのも、ベンチャー立ち上げの頃はいざ知らず、当時の彼は純然たる経営者なのだ。ダ・ヴィンチを吹聴するだけの仕事は、実際には従業員の手によるものだった。
気の利いたメディアなどは、「むしろメディチでは」と評した。これはこれで、皮肉込みのリップサービスであろうが。
ともあれ、彼の影響力はすさまじいものだった。いつの間にか、自分を偉人になぞらえる文化が世界中に浸透していった。
畏れ多くも、赤信号を皆で渡れば――というところか。
そんな中、イカレた連続殺人鬼が、世間を騒がした。彼は世の流れに乗るかのように、自身を有名なシリアルキラーになぞらえ、メディアに言い放った。
「これは序章に過ぎない」と。
これは、所信表明としては甚だ見当外れなものであった。この声明が手掛かりとなり、あえなく御用となったのだから。
その一方で、彼の言葉には一抹の真実もあった。
自分の人生に行き詰まった連中が――怖いもの知らずも良いところだが――歴史上の偉人や大罪人を名乗って凶行に走り出したのだ。
模倣犯などという生易しいものではない。そういう一大風潮ができてしまったのだ。
もちろん、大半はただの愚か者であり、偽物である。生まれ変わりだ、あるいは憑依しているなどと、それらしいことを口にしているに過ぎない。
しかし、中には本物も混ざる。
フェイクだらけのこの世界に、人々の願望が受肉して。
☆
東京都西部某所、とある初夏の昼下がり。駅前のビル周辺は騒然となっていた。
通行人は人だかりに呑まれて足を止め、不安な顔を上に向けるばかり。
そんな中、上にスマホを向ける者は少数派。多くは良心が邪魔しているのだろう。
あるいは、これから起こることを、肌身離さない端末に留めたくないのか。
突如、屋上から女性の甲高い声が響いた。「近寄らないで!」と、彼女の絶叫が地上のざわつきを切り裂き、辺りを一瞬静まり返らせる。
注目の的となっているビル屋上では、若い女性が一人、フェンスにしがみついているところだ。
メガネ姿でパッとしない容姿。髪は毛量が多く、手入れはほとんどされていないように映る。
その体は、フェンスの向こう側だ。あと一歩、虚空に向けて踏み出せば――
フェンス内側には、揃って置かれたスニーカー。靴の中にしまい込むように差し込まれた、一通の封筒らしきもの。
彼女がどういうつもりなのか、一目瞭然であろう。
一見、くたびれて取り乱したような印象を与える彼女だが、一方で感情を激発させてもいる。
彼女を遠巻きに取り囲むのは、このビルの関係者たち。雑居ビルの各テナントやオフィスの従業員、それにビル管理の守衛など。
老若男女のこの集いは、決して頼まれたわけでもなかろうが、自発的にこの場に身を置いているのだろう。強い緊張感を持ちながらも、彼らは問題の女性を刺激しないよう、懸命の説得に取り掛かっている。
「君、まずは落ち着いて……何があったのか、我々が話を聞こうじゃないか」
「話すことなんて何もない! どうせ、こんなところで死なれたら、自分たちが困るだけなんでしょ! 自分の都合で良い人を装って、後で私に後ろ指さすんだわ!」
「そ、そんなことはない!」
果敢にも対応を続けるのは、50代ほどの男性。キチッとしたスーツ姿、その額には汗が
すでに通報は済んでいる。あくまで民間人に過ぎない彼らにとって、この場をどうにか維持することだけが、求められる使命である。
しかし――事態は急変する。フェンスを握る例の彼女の上肢が、不意にビクンと跳ねた。
何かしらの生理的なものだろうか。彼女自身の意志によるものとは思えないが、見ただけで胸裏が凍り付きそうである。
だが、恐ろしいのはここからだった。フェンスを握りしめる彼女の腕が、急に激しく振動を始めたのだ。
同時に、彼女の呼吸は荒くなり、目が見開かれる。今までの、他者を寄せ付けない形相とは一変、その顔には驚愕と困惑、そして恐布が入り混じる。
これを見守るしかない者たちの当惑と恐怖といったら、いかばかりであろうか。
やがて彼女は、腕を伸ばし、背を大きく仰け反って宙の方へ。外側に重心が大きく傾き、フェンスがきしみを上げる。
もはや聞く耳持たずといった彼女の挙行は、ある種の脅しのようでもあった。地上と屋上両方で、悲鳴混じる喧騒が生じる。
だが……混乱極める渦中の中心にあって、張本人たる彼女は、何がどうしてこうなっているのか、まるでわかっていない様子であった。これから死のうとしていた人物には似つかわしくない
そこへ一人の青年が現れた。年の程は20代半ばであろうか。黒のスーツ姿、ダークブラウンの髪は短く揃えられ、切れ長の目が鋭い視線を放つ。
彼は状況を素早く
☆
お
まったく、ツイていない。
――いや、実際には憑いているのか?
そんなくだらないジョークが脳裏に浮かぶも、苦笑いすらできない現場に向かって駆けていく。人ごみを押しのけ、事が起きているビルへ。
連絡によれば、所轄の面々が向かいつつあるところ。ただ、急を要する事態だけに、まずはこちらが先行。僕向けの事件であれば幸い、とのことだった。
実際、上の方からは何だか
幸か不幸か、互いの気配を察することができる程度の、腐れ縁になってしまった仲のあの人が。
ビルへ入り込もうとするも、さすがに守衛に阻まれた。すかさず胸ポケットに手を突っ込み、手帳を取り出して見せる。
「警視庁の者です。付近にいたところ、応援に向かうようにと」
この手帳は本物だ。ただ、正式な所属までは明かさない。何かと話題性がある部署だけに、ヤジ馬が変に騒ぎ出すかもしれないからだ。
いつものように、部署名を指でうまいこと隠したのが奏功した。怪しまれることなく、守衛の二人は奥へ通してくれた。
それにしても、ヤジ馬に囲まれたこの状況は、決して愉快なものではないだろう。こんな形で慌ただしい一日になった彼らに、同じく振り回される身としては、共感や同乗の念を禁じ得ない。
そんな思いを胸に、僕は案内に従ってビル内を進んでいった。最上階は機械室となっていて、本来はエレベーターが通じていないが、今回は特別に通してくれるという。
こんな状況下でも、ビルは変わらず機能している。うなり声をあげる機材の中を駆け抜け、外の非常階段へ。2段飛ばしで駆け上がり……
ついに現場に到着した。地上から見た状況は、あまり動いていないようだ。
そして、予想通り。馴染みのあの「大先生」が、現着しておられるご様子。
となると、本格的に管轄部署がこちら側に移動してきて、色々面倒ではあるのだけど……
人命には代えられないか。
新たにやってきた僕に、場の注目が寄せられる中、僕は警察手帳を取り出して名乗った。
今度は正式な部署名まで。
「警視庁葬祭課の者です」
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