警視庁葬祭課26時

紀之貫

第1話 生死の間をいく者たち

 いつ頃だったか、世の中は大きく変わっていった。

 潮目になったのは、アメリカの若い実業家だった。

 飛ぶ鳥落とす勢いの億万長者となった彼は、ある時期からメディアの前で、自分をダ・ヴィンチの生まれ変わりだと吹聴し始めたのだ。


 これは神をも恐れぬ大言である。

 そもそも、彼自身はモナリザのような絵画を手掛けた訳ではないのだ。彼自身が様々な発明品を世に送り出したわけでもない。

 というのも、ベンチャー立ち上げの頃はいざ知らず、当時の彼は純然たる経営者なのだ。ダ・ヴィンチを吹聴するだけの仕事は、実際には従業員の手によるものだった。

 気の利いたメディアなどは、「むしろメディチでは」と評した。これはこれで、皮肉込みのリップサービスであろうが。


 ともあれ、彼の影響力はすさまじいものだった。いつの間にか、自分を偉人になぞらえる文化が世界中に浸透していった。

 畏れ多くも、赤信号を皆で渡れば――というところか。


 そんな中、イカレた連続殺人鬼が、世間を騒がした。彼は世の流れに乗るかのように、自身を有名なシリアルキラーになぞらえ、メディアに言い放った。


「これは序章に過ぎない」と。


 これは、所信表明としては甚だ見当外れなものであった。この声明が手掛かりとなり、あえなく御用となったのだから。

 その一方で、彼の言葉には一抹の真実もあった。

 自分の人生に行き詰まった連中が――怖いもの知らずも良いところだが――歴史上の偉人や大罪人を名乗って凶行に走り出したのだ。

 模倣犯などという生易しいものではない。そういう一大風潮ができてしまったのだ。

 もちろん、大半はただの愚か者であり、偽物である。生まれ変わりだ、あるいは憑依しているなどと、それらしいことを口にしているに過ぎない。


 しかし、中には本物も混ざる。


 フェイクだらけのこの世界に、人々の願望が受肉して。



 東京都西部某所、とある初夏の昼下がり。駅前のビル周辺は騒然となっていた。

 通行人は人だかりに呑まれて足を止め、不安な顔を上に向けるばかり。

 そんな中、上にスマホを向ける者は少数派。多くは良心が邪魔しているのだろう。

 あるいは、これから起こることを、肌身離さない端末に留めたくないのか。


 突如、屋上から女性の甲高い声が響いた。「近寄らないで!」と、彼女の絶叫が地上のざわつきを切り裂き、辺りを一瞬静まり返らせる。


 注目の的となっているビル屋上では、若い女性が一人、フェンスにしがみついているところだ。

 メガネ姿でパッとしない容姿。髪は毛量が多く、手入れはほとんどされていないように映る。

 その体は、フェンスの向こう側だ。あと一歩、虚空に向けて踏み出せば――

 フェンス内側には、揃って置かれたスニーカー。靴の中にしまい込むように差し込まれた、一通の封筒らしきもの。

 彼女がどういうつもりなのか、一目瞭然であろう。


 一見、くたびれて取り乱したような印象を与える彼女だが、一方で感情を激発させてもいる。

 彼女を遠巻きに取り囲むのは、このビルの関係者たち。雑居ビルの各テナントやオフィスの従業員、それにビル管理の守衛など。

 老若男女のこの集いは、決して頼まれたわけでもなかろうが、自発的にこの場に身を置いているのだろう。強い緊張感を持ちながらも、彼らは問題の女性を刺激しないよう、懸命の説得に取り掛かっている。


「君、まずは落ち着いて……何があったのか、我々が話を聞こうじゃないか」


「話すことなんて何もない! どうせ、こんなところで死なれたら、自分たちが困るだけなんでしょ! 自分の都合で良い人を装って、後で私に後ろ指さすんだわ!」


「そ、そんなことはない!」


 果敢にも対応を続けるのは、50代ほどの男性。キチッとしたスーツ姿、その額には汗がにじむ。

 すでに通報は済んでいる。あくまで民間人に過ぎない彼らにとって、この場をどうにか維持することだけが、求められる使命である。


 しかし――事態は急変する。フェンスを握る例の彼女の上肢が、不意にビクンと跳ねた。

 何かしらの生理的なものだろうか。彼女自身の意志によるものとは思えないが、見ただけで胸裏が凍り付きそうである。


 だが、恐ろしいのはここからだった。フェンスを握りしめる彼女の腕が、急に激しく振動を始めたのだ。

 同時に、彼女の呼吸は荒くなり、目が見開かれる。今までの、他者を寄せ付けない形相とは一変、その顔には驚愕と困惑、そして恐布が入り混じる。

 これを見守るしかない者たちの当惑と恐怖といったら、いかばかりであろうか。


 やがて彼女は、腕を伸ばし、背を大きく仰け反って宙の方へ。外側に重心が大きく傾き、フェンスがきしみを上げる。

 もはや聞く耳持たずといった彼女の挙行は、ある種の脅しのようでもあった。地上と屋上両方で、悲鳴混じる喧騒が生じる。

 だが……混乱極める渦中の中心にあって、張本人たる彼女は、何がどうしてこうなっているのか、まるでわかっていない様子であった。これから死のうとしていた人物には似つかわしくない狼狽ろうばいが、ありありとその顔にあふれ出る。


 そこへ一人の青年が現れた。年の程は20代半ばであろうか。黒のスーツ姿、ダークブラウンの髪は短く揃えられ、切れ長の目が鋭い視線を放つ。

 彼は状況を素早く一瞥いちべつすると、胸ポケットに手を差し込んだ。



 おはらいの帰り道、”それらしい反応”があるから念のために向かうようにと指令を受け、行ってみればこの有様。

 まったく、ツイていない。

 

――いや、実際には憑いているのか?


 そんなくだらないジョークが脳裏に浮かぶも、苦笑いすらできない現場に向かって駆けていく。人ごみを押しのけ、事が起きているビルへ。

 連絡によれば、所轄の面々が向かいつつあるところ。ただ、急を要する事態だけに、まずはこちらが先行。僕向けの事件であれば幸い、とのことだった。

 実際、上の方からは何だかそれらしい・・・・・気配がする。

 幸か不幸か、互いの気配を察することができる程度の、腐れ縁になってしまった仲のあの人が。


 ビルへ入り込もうとするも、さすがに守衛に阻まれた。すかさず胸ポケットに手を突っ込み、手帳を取り出して見せる。


「警視庁の者です。付近にいたところ、応援に向かうようにと」


 この手帳は本物だ。ただ、正式な所属までは明かさない。何かと話題性がある部署だけに、ヤジ馬が変に騒ぎ出すかもしれないからだ。

 いつものように、部署名を指でうまいこと隠したのが奏功した。怪しまれることなく、守衛の二人は奥へ通してくれた。


 それにしても、ヤジ馬に囲まれたこの状況は、決して愉快なものではないだろう。こんな形で慌ただしい一日になった彼らに、同じく振り回される身としては、共感や同乗の念を禁じ得ない。

 そんな思いを胸に、僕は案内に従ってビル内を進んでいった。最上階は機械室となっていて、本来はエレベーターが通じていないが、今回は特別に通してくれるという。

 こんな状況下でも、ビルは変わらず機能している。うなり声をあげる機材の中を駆け抜け、外の非常階段へ。2段飛ばしで駆け上がり……


 ついに現場に到着した。地上から見た状況は、あまり動いていないようだ。

 そして、予想通り。馴染みのあの「大先生」が、現着しておられるご様子。

 となると、本格的に管轄部署がこちら側に移動してきて、色々面倒ではあるのだけど……

 人命には代えられないか。


 新たにやってきた僕に、場の注目が寄せられる中、僕は警察手帳を取り出して名乗った。

 今度は正式な部署名まで。


「警視庁葬祭課の者です」

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