第35話 誰?
呂雉という新手との戦いが始まって、私は気が気じゃなかった。映像で見る天野さんは、相手に押されているばかりのように見えてしまう。
でも、同じものを見ているはずのしのぶさんは、真剣ではあったけど、そんなに切迫感はなかった。
「奥の手がありますから」とのことだけど……
そんなしのぶさんでも、この事件を取り巻く状況には、強い心配がある様子だった。
「世間に呂雉という個人名が広まると、厄介ですね」
「恐れが増して、瘴気がここへ押し寄せるからですか?」
私が問うと、しのぶさんはコクリとうなずいた。
「世間的に、そこまでは知られていないからこそ、知ればみんな検索でもするでしょうね。それで、色々と知ってしまったなら……油の海に火を注ぐようなもんですよ」
確かに、私がその名を調べてみた時も、ゾッとするような思いを
それに、話題にしやすい、センセーショナルな要素が揃っている。中国三大悪女の一人だとか、人豚の刑とか……
しかも、今日の事件は進行中。この事が一度、世に知られてしまえば相当な騒ぎとなってしまう。
現状は持ち堪えている、私たち霊能者の防波堤だって、もしかすると――
そんな予感に震えていると、私たちの方へと課長さんが駆け寄ってきた。
「どうなりました?」と問いかけるしのぶさんに、課長さんがあくまで落ち着いた口調で答える。
「話は通じたわ。通信規制が入りましす。主要SNS全社の日本向けネットワークが、一時的にダウンします」
そんな話を聞いて、思わず目が丸くなる。そんな私に、課長さんは少し顔を柔らかにして捕捉を入れてくださった。
「もちろん、私たち警視庁の権限だけでそうしているわけじゃないわ。まぁ……私たち現場の提言をもとに、閣議を通じて各社へ緊急要請ってところだけど」
つまり、今回の事件は国も動くレベルという話で……国に働きかけられるだけの課長さんの権限や、私たちが直面している事の次第というものを、私は改めて思い知らされた。
ただ、驚きっぱなしの私とは違って、しのぶさんは頼もしくなるくらい冷静だった。こういうことも、実は慣れっこなのかもしれない。
「規制の名目は?」
「トラフィック過負荷によるダウン。実際、みんな騒ぎ過ぎだから、ちょうど良いでしょう。後で陰謀論者が騒ぎ出すかもしれないけど……」
「ま、動いてくれれば、それはそれで。尻尾
そう言えば、今回の事件の黒幕はハッキリしていない。
事件発生当初、SNS上にはサクラっぽい動きがあったとか。そういった動員ができるのなら、相当の組織力があるように考えられるっていう話だった。
まだ見えない真相に気を揉む私だけど、本当に気にかけるべきは他にもあった。映像の中の天野さんは、やっぱり敵に押され続けていて――
それでもお二方は、「中々やるようね」といった感じで観戦モードだった。しのぶさんが言う、奥の手とやらがあるからかもしれないけど。
と、その時、金色の鞭が天野さんの体を打ち付けた。当たったのは左腕。 思わず心臓が跳ねそうになる私だけど、お二方はあくまで冷静さを保っていた。
「当たったところが使いものにならなくなるようですね」と、すぐにしのぶさんの分析が入る。
「なるほど……人豚の逸話を再現しているのかしら」
「でしょうね。四肢と五感を奪う、
淡々とした口調で答えたしのぶさんは、目を閉じて何か考え事を始めた。
「天野さんの守りを突破し、呪いを植え付けたというのは、ただ事ではないです」
「……万一もあり得るかしら?」
「相手側も余力を残しているのなら、あるいは」
すると、課長さんの顔がにわかに険しいものになっていく。
「降神の許可は取ってあるわ。それでも、何かしら手立てを……ってことね?」
「はい」
真剣な眼差しを向けるしのぶさんを前に、課長さんは渋面でフッと一息。
今一つ流れを呑み込めないでいる私に、あくまで優しい感じのしのぶさんが、改めて状況の説明を始めてくださった。
「あの場に直接、武力介入するのは無理です。互いの奥の手が発動すればなおさら。ここに入る戦力では、手助けにもなりません」
「それでも、何かしらの支援を……ということですよね?」
「ええ。対偉人メタって覚えてますよね?」
「特定故人の弱点というか……トラウマを突くんですよね」
「そういうことです」
ちょっと満足そうにうなずいたしのぶさんは、タブレットを指で操り始めた。まだ生きている現場のカメラを入れ替え、様々なアングルで状況を精査している。
「現場のモニター、使えるかもしれませんね」
しのぶさんが誰に向けた感じでもなく口にすると、課長さんが「確認してくるわ」と走り出した。
きっと、閣僚だって相手にできるはずの課長さんが、まるで使い走りみたいになっていることに、若干の驚きを感じてしまう。
でも、当のお二方はまるでそんなことは気にもしていなくて。
きっとこれが、有事の真っただ中での、葬祭課のスタイルなのだと思う。
課長さんはどうやら、ビル外に逃れたTV局の方々の方に向かっているみたいだった。その背を目で追う私に、しのぶさんから声がかかる。
「何か、いいアイデアがあれば、喜んで聞きますよ」
「それは……あの呂雉を、精神的に追い詰めるアイデアってことですよね?」
「はい。気が進まないでしょうし、今日知ったばかりで難しいとも思いますけど」
実際、今日名前を知ったばかりの相手に対し、心の傷を突くようなことができるほど、私はモノを知っていない。
それでも、何か助けになれればと、私は自分のスマホで調べ物を始めた。
今も戦っている天野さんの事は、もちろん心配で仕方なかったけど……心配したって助けになれないなら、意味がない。
焦燥と不安で指が小刻みに震えながらも、私はスマホに視線を走らせた。
ただ、呂雉の検索結果を見ても、私には馴染みのない単語ばかりが出てくる。
今仕入れたばかりの、つけ焼きの知識なんかが、天野さんの助けになれるなんて……そうは思えない。今のうちから、否定的な暗い考えが脳裏に立ち込めてしまう。
そんな私にも、どうにかわかる単語が出てきた。一番目立つのは劉邦で、歴史の授業で覚えた記憶がある。
高校の図書館には、数少ないマンガ本として項羽と劉邦とか置いてあった。同じクラスの男子が、歴史の勉強と称して授業中に読んで、世界史の先生に笑いながら叱られてたっけ。
授業でやったということもあって、最終的には劉邦の側が勝ったっていうのは知っていた。それなのに、タイトルで項羽が先に来ているのが気になって、先生に聞いてみたんだけど、回答には少し拍子抜けしてしまった。
なんでも、項羽の方が人気だからとかなんとか。『頼朝よりも義経の方が人気あるのと同じ』とかなんとかで。
そういえば、項羽の方が主人公っぽく扱われている話を、もう一つ覚えてる。漢文でやった、故事成語の四面楚歌。
確か、敵勢に取り囲まれた項羽と虞美人の話で、「ぐやぐや、なんじをいかんせん」ってフレーズだけは妙に思えてる。
きっと、歴史の節目に当たる出来事だったんだろうけど、その一方で世界にはあの二人しかいないような物寂しさがあって、印象的だった。
……結局、私に思い出せるのは、授業つながりでそんなところだけ。高校時代をいくら掘り起こしても、思い出せる中に呂雉の呂の字もない。
劉邦の後、天下の実権を握ったって、ネットにはそう書いてあるのに。
と、その時。空を覆う暗雲に稲妻が走り――
事が起きている、あのビルに落ちた。
普通の雷じゃない。ビル全体に、青みがかった紫の荊が絡みついているみたいで……
不意に胸騒ぎがして、しのぶさんのタブレット端末に目を移すと、画面は色々なウィンドウで埋まっていた。
ただ、今見たいものは共通しているようで、現場の映像がすぐに最前列へ。
スタジオ内で倒れていた天野さんに、あちこちから電気が伸びては絡みついている。
ひと目見た時は心臓が止まりそうだったけど、別に感電しているわけではないようで、それどころか天野さんに力が注がれているみたいだった。
感電しないのが不思議でならなかったんだけど……私は気づいた。
「これが奥の手ですか?」
「はい。いわゆる降霊術の一つで、神さまを降ろせるんです」
「神様を?」
「今日お世話になるのは、天満宮で祀られている、あのお方ですね」
それを聞いて、私はハッとした。天野さんが現場に向かう前、天満宮で買ったお守りを渡したから。その事が影響しているってわけでもないと思うけど……何かしらの縁はあったのかもしれない。
ただ、神を降ろして形勢逆転と思いきや、しのぶさんの表情には少し険しいものがある。
実際、形成を立て直し、天野さんに余裕が戻ったように見えるけど、相手を押し切るほどの勢いはない。
すると、私たちの方へと課長さんがやってきた。
「局員が、まだ制御室に残っているわ。霊能係も同フロアに詰めて防衛中よ」
「なるほど。奪われては大変ですしね。現場のモニターは、その制御室から?」
「データさえあれば、すぐにでも流せるらしいわ。ただ、モニターがどれだけ生きているかはわからないけど」
とりあえず、現場のモニターを通じての精神攻撃そのものは、不可能ではないという感じ。
では、本当にそれをやるかどうか。しのぶさんが意向を口にした。
「天野さんも結構スロースターターですが……現状で押し切れていない以上、手助けは必要と考えます」
「わかったわ。何かしらサポートを」
「了解!」
制御室へ駈け込もうという気満々のしのぶさん。
肝心のネタは、もうあるのだと思う。私が何か言っても、余分な素人考えかもしれない。
それでも、何か助けになれればと、私は勇気を出して口を開いた。
「あ、あの!」
すると、真剣ながらも少しうれしそうな視線を向けてくるしのぶさん。少し高揚する気持ちを覚えつつ、私は続けた。
「私、本当にモノを知らなくって、呂雉を知ったのも今日が初めてで……でも、項羽と劉邦と虞美人は知ってました」
「授業でやりますもんね」
「はい。でも、後で天下の実権を握ったっていうのに、呂后のことはまったく記憶になくて……」
絡み合う思考の糸を落ち着いて解きほぐし、私は一息ついて口にした。
「
ここまで言うと、もうお二方も察しがついているみたい。真剣さの中に、どこか嬉しそうな、満足そうな……そんな目を向けられる中、私は言葉を結んだ。
「天下の皇后にとって、こんな屈辱ってないんじゃないですか?」
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