第36話 蒼天は龍の墓
モニターに流れる日象と、スピーカーから流れてくる、良くわからない歌。 たぶん、四面楚歌の一幕、垓下の歌の
いや……何か、間に合わせの別物かもしれないけど、とにかく四面楚歌として扱えばいい。そういう意図で流しているだろうから。
問題は、これをどうやって口撃に
スタジオを取り囲んでくる歌を耳にして、呂雉も若干の反応を見せている。僕は紫電の鞭を振り付け、声をかけた。
「アンタ、項羽を取り囲んだこの夜に、一体どこで何をしていたんだ?」
「知らぬわ!」
開き直りのように声を上げ、僕の一撃を黒き竜の鞭で相殺してくる。
「今更聞くことでもあるまい! 我らはつまるところ、衆愚の記億の産物に過ぎぬ! どうせ、この作り話にも、
「さあな、探す興味すらないね!」
襲い来る九頭の竜を迎撃しつつ、僕は声を張り上げた。
本心はどうあれ、畏れ多くもこれがこの世の返答だ。
天下を握る前の呂雉に、気を配る者は今の世にほとんどいない。話題になるのは、天下を掌握してからの非道ばかりだ。
しかし――今の呂雉は、邪悪な力を身にまといつつも、どことなく胸を打つ悲壮さが滲み出ている。
依然として健在の九頭龍を振るいつつ、彼女は叫んだ。
「妾が目もかけられておらぬだと!? 笑止! 今更そのようなこと、言われるまでもない! 死後も生前も、何ら変わらぬわ!」
押し寄せる九龍の力に吹き飛ばされるも、どうにか姿勢を立て直して応戦していく。
打ち合う力の奔流で染まる視界。耳を突く衝撃音と物寂しい歌の奥から、血の叫びが聞こえてくる。
「項羽を殺したとて、世は何も変わらなんだ! 韓信も! 黥布も! 陛下でさえも! 互いに憎み合って果てていったわ! ならば、奪わねば報われぬ世に生まれたと知って、そのように身を立てて何が悪い!」
「だからって、天子が誰でもいいわけないだろうが!」
「
大上段から構えた九龍の一振り。叩きつけられた床に深々と、九本の爪が痕を残している。
未だ、直撃を貰えばやられかねない、そんな力が残っている。
一方で、平静を奪えているのは確かだ。少なくとも、戦い始めた時のような余裕はどこにもない。
むき出しの感情を曝け出す、一個の存在がそこにいる。
そして、漆黒の竜の鞭を構えなおし、彼女は肩で息をしながら言った。
「この世に特別なものなど……何一つあるものか。日輪とて、
「だったら、お前たち夫妻は何だというんだ」
僕の問いに、即答はなかった。ただ、呂雉はどこか寂しげに笑うばかりで、その顔も振るわれる龍の影に隠れてしまう。
互いの消耗は明らかだった。力と力をぶつけ合い、その度に吹き飛ばされかけ、よろめく。
より深刻なのは、こちらの方だった。少しずつだけど、腕の感覚がなくなってきている。呂雉の金鞭とは無関係に、ただ体の限界が近づいてきているだけだ。
そして先に、僕の武器が音を上げた。注ぎ込まれる力に耐えきれなくなって、即席の雷公鞭が、ついにバラバラになってしまった。
今の僕の手に握られているのは、護符と布切れの残骸でしかない。
そんな僕に、呂雉はどことなく柔らかな笑みを浮かべた。
「よくぞここまで戦い抜いた……先に眠るが良い。後で全てを同じところに送ってやろうぞ」
彼女が言う全ては、きっとその文字通りなんだろう。
目につく全てのヒトを、皆殺しにしていくに違いない。
もはや役立たずの武器を握る僕に、呂雉はためらいなく黒い鞭を振るった。九頭の龍が束ねられ、大上段から襲いかかってくる。
この一撃を前に、僕は両腕を上げて構えた。身に宿した神気と、黒い龍の邪気が衝突し、辺りがまばゆい閃光に包まれる。
打ち据えられる衝撃が、遠くなりつつある感覚を超えて、体の芯に響いてきた。
それでも、防御できただけまだマシだ。痺れる右腕の中で、あの鞭から侵食しようとする邪気と、内なる神気がせめぎ合っているのを感じる。
今の一撃の衝撃は、鞭の側にもいくらか伝わったらしい。跳ね飛ばされた龍頭を引き戻し、呂雉が穏やかに声をかけてくる。
「あまり動くでないわ……楽にしてやれぬではないか」
「あいにくと、まだ死んでられないんでね……」
今にも笑いそうになる膝に活を入れ、重くなる腕に力を込め、僕は彼女を見据えた。
すると、彼女は陰のある顔で微笑んだ。
「そうまでして永らえるほど、価値のある世ではあるまいに。所詮、人の世の本質は、底知れぬ闇よ」
「……ハハッ。
こんな時になっても相変わらずの僕は、スタジオにいくつもあるディスプレーを指さした。
画面に映し出されているのは、項羽と虞美人の二人だ。
内心、とても罪悪感を覚える僕の前で、呂雉は――表面上は無感情に、鞭を振るった。今までは捨て置かれていた画面が、次々と叩き割られていく。
その間、僕にはやることがあった。
向こうもそれに気づいたらしい。画面という画面が打ち抜かれ、砕けて散ったその後、呂雉が呆れたように声をかけてきた。
「今更、そのような物で何をしようと?」
僕が操っているのは護符だ。鞭の一発で紙切れにされる程度の、無力な存在でしかない。結界を作っても、本気を出す前のあの鞭に破壊されていた。
あの呂雉に対し、何の役にも立たない護符だけど、使い道はまだある。
宙に整列させた護符が、僕の操作で腕に巻き付いた。幾重にも螺旋を描き……縛り上げられた腕の中で、今もなお、天神の紫電が駆け巡る。
護符で補強した右腕を、僕は振り上げた。この右腕こそが、神気をダイレクトに叩きつける最強の鞭だ。
打てて一発だ。全身に鳴動する力で気が遠くなる。今放たれようという一撃を前に、僕は歯を食いしばり――
渾身の手刀が放った。腕から伸びていく紫の稲妻が、この体を超えて一本の鞭となり、大気を引き裂きながら呂雉に迫る。
そして、彼女を守る黒龍に神雷が打ち付けられ――
その瞬間、僕の意識は断絶した。
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