エピローグ
自分が放った一撃で吹っ飛ばされた僕は、一瞬だけ寸断された意識を取り戻した。慌てて体に力を入れ、不確かな下半身で、どうにかよろよろと立ち上がる。
先の一撃の影響は、スタジオ全体にも及んでいるようだ。さんさんとしていた照明は、かなり薄暗いものになっている。
それに、四面楚歌の局面を流していたはずが、スピーカーは完全に沈黙している。この調子だと、カメラも生きているかどうか……
そして、動かなくなったのは敵も同様だった。遠く離れた床に、一人の女声が転がっている。
ふらつく頭で目を凝らしてみると、黒い龍はもはや見えない。
それでも警戒しながら、僕は向こうに近づいていった。
息は荒く、一歩進めるごとに、体の重さを感じずにはいられない。右腕は完全に感覚がなく、左腕の感覚も鈍い。
これでまだ戦いが続くようであれば……どうしようもない。
幸い、僕が近づいていっても、向こうは目立った反応を示してこない。死んだフリみたいなこともないだろう。
とはいえ、念のためにと、僕は左手で護符を操って飛ばした。残っていた物は、かなり強い悪霊にも対応できる護符だ。
問題は、あの呂雉に効くかどうかということだけど……背を丸めて転がっている彼女は何一つ抵抗を示さず、その体に護符が貼り付いた。
これはつまり、双方の力関係を示している。僕の方が――いや、天神さま込みの僕らの方が、今は力が上回っている。
とはいえ、他の霊でも取り込まれればコトだ。安堵と不安入り交じる中、僕はさらに歩を進めていき……
結局、何事もなく、彼女のすぐそばに着いた。
意識はもっと前からあるらしく、僕の接近にも驚きはない。彼女は口を開き、それまでとは打って変わって弱々しい声で話しかけてきた。
「これで終わりか……」
「そうだな」
「……一つ、聞きたいことがある。どうか、答えてもらえまいか」
戦ってきた時がウソのように、殊勝な態度で頼み込む彼女に、僕は無言で首肯した。
「
「……ええ、まぁ」
「そなたは、信じるか?」
問われて僕は、戸惑った。
世に言われているほどのことは、していないのではないかと考えている。おそらくは――
「話を盛っただけだと、そう思う」
率直な意見を口にすると、彼女は少しホッとしたような、柔らかな笑みを見せた。
「そうか……ふふふ。世の中の連中は、四肢を切り落とされ、目と耳と喉を潰されてなお、ヒトは絶命しないものと思っているらしい。華佗も生まれておらぬ頃の話だというのに……」
「それでも、それなりの非道は働いたんじゃないか」
「さてな……もはや妾にも思い出せぬ。世に伝わったのは、史実の方なのでな……」
そう言って、呂雉は目を閉じた。
彼女が世の中を専横したのは、まず間違いない事実だ。呂氏一族を重職に付け、天下を私物化していたという。
実子である恵帝が若くして亡くなったのも事実だ。実母の振る舞いに心を痛め、酒に溺れて早逝したと伝えられている。
劉邦の愛人である戚夫人と、その子の劉如意を呂雉が謀殺したのも事実だろう。
しかし、人豚の刑のようなことまでは、やっていないのではないか。
それでも、実際に起きたことのように伝わっているのは、史書に記されているからだ。
そして、後の世で彼女は、中国三大悪女と呼ばれるに至っている。
一方、項羽を相手取って幾度も窮地に陥った劉邦を、彼女は妻として支え続けてきたはずだ。
でも、その事は、ほとんど顧みられていない。歴史家にも、後世の人間にも――
おそらくは、劉邦にさえも。
思わずため息をついた後、僕は自分の仕事を果たすことにした。
「現世に現れたのは、何が目的だったんだ?」
「なに……単に、人の世を滅ぼしたくてな」
「あの爆弾魔との関係は?」
「同志とでも言っておこうか……」
その割には、あの男に対してずいぶんと粗末な扱いをしていたけど……実際、関係者ではあるのだろう。
「背後にある組織は?」と問うと、呂雉は皮肉な笑みを浮かべた。
「教えてやる義理などないわ」
そりゃそうだろう。それに……
世の中を脅かそうという組織が
ただ、どうにかその尻尾を
またもため息が出てしまう。すると、呂雉は真剣な目を向け、僕に声をかけてきた。
「一つ教えてくれ」
「さっきも、一つ答えたじゃないか」
つい流れでツッコむも、仕方ないと手で促すと、彼女は問を発した。
「私は、どこで間違えたんだ?」
「さぁ……人生の伴侶じゃないか」
率直な解答に――彼女は声なく笑い、そのまま動かなくなった。
特霊としての呂雉は、これで
そして、宿主である女性に手を伸ばすと……やはり絶命している。
ともあれ、一仕事終わった。晴れない気持ちを胸に立ち上がると、天神さまの声が響く。
『気持ちは、わからないでもないな』
『復讐に関して、ですか?』
『そうだ。私は、やらずに済ませたが……』
会話はそれきりだった。今や静まり返ったスタジオに、僕は立ち尽くし……
少しして、スタジオ内に増援が駆け込んできた。いつもの相方が先頭になって。
真剣な顔に安堵の色が浮かぶのを見て、僕もようやく肩の荷が下りた思いを
☆
世の中を騒がした爆弾テロも、事が終わればすぐに静かになった。
結局、生放送の中断は、機材的なトラブルということで片付けられた。この件に関し、社長が会見を開いて頭を下げることになったけど……本当のことを伝えるよりは、ということだ。
国からも、そういうシナリオでという要請があったという話だ。
ユナボマーうんぬんの事も、騒動が終わるとアッサリ波が引いた。
ユナボマーや論文という形式の怪文書については、生放送中断という憶測を呼ぶ事態に乗じた、悪質なデマというのが、政府を始めとする公的機関の統一見解だ。
実のところ、無関係の人物を
――そんなこんなの事後報告書から目を外し、僕はイスに大きくもたれかかった。
つい最近、あんな戦いがあったというのがウソに思えるくらい、最近は落ちいたものだ。目立つ仕事といえば、ちょっとした悪霊のお
それはそれで、間違いなく良いことではある。
それに、僕や相賀さんみたいな現場要員が、有休を取っていられるのは、裏で情報戦にかかる部門や協力者がいるからこそだ。
世の中の暗部には、まだ見ぬ脅威が潜んでいる。
そういう連中のことが脳裏に思い浮かんで、僕はため息をついた。窓に目を向けると、外は晴れ渡っている。
「そろそろじゃないですか?」
横からの声に目を向けると、相賀さんがにこやかに微笑んでいた。
言われて時計を見て、僕は立ち上がった。合わせて相賀さんも席を立つ。
二人で外に向かうと――すでに平坂さんが到着していた。
彼女と合うのは、あの事件以来になる。僕ら二人が事後処理でバタバタしていたり、有給を取ったり……
普段の仕事に戻ったら戻ったで、今度は平坂さんの都合が合わなかったりで。
ずいぶんと久しぶりになってしまったものだけど……相変わらず元気そうな彼女を前に、僕は内心では複雑な思いがあった。
そういうところを、彼女に感づかれてしまったようだ。
「天野さん、どうしました?」
「いや……ああいう事件があったっていうのに、何ていうか……こんな業界に、まだ付き合ってくれるっていうのがね」
煮え切らない思いを胸に、僕は思った通りの言葉を口にした。
少し合わなかった間に、このインターンみたいな関係が自然消滅していれば、きっと彼女には安全だったろう。
しかし――何かしらの志あって、こうして足を運んでくれたのなら、それを軽んじたくないという気持ちもある。
そんなアンビバレンツに揺れる僕の横で、相賀さんがあっけらかんに言い放つ。
「私は嬉しいですけどね」
「いや、それはその……嬉しいだけじゃ済まされない部分もあるって話で」
「ま、それはそれとして……ご本人の気持ちを聞いてみましょうよ」
話のバトンを渡され、平坂さんは少し視線を泳がせた後――僕らをまっすぐ見据えて言った。
「中途半端で終わらせたくないですから。私たちの世の中がどういうものか、少しでも深く知ってしまいましたし……私なりに、何かしたいんです」
「そっか……」
彼女なりに考えて決めたことなら、これ以上はとやかく言えない。
できることと言えば、重要事件に巻き込まないようにすること、いざとなれば彼女を守ることぐらいだ。
彼女の所信表明の後、女性二人は少し改まった様子で握手した。
「ほら、天野さんも照れてないで」と、ニヤニヤしながら相賀さんが僕の背を押す。
「照れてないって」と口にする僕だけど、周囲を行き交う通行人の目が気になる。
ああ……こういうのは屋内にすべきだった。
後の祭りになっている中、手を差し出しっぱなしの平坂さんに目を向けた。ニコニコしている彼女に、僕は手を伸ばしていき……握手に応じる前に一言。
「ちょっといいかな」
「どうかしました?」
「いや、これからも色々と教えるのは良いんだけど……仕事だけは、きちんと自分で選ぶように」
すると、彼女は満面の笑みで「もちろん!」と答えた。
警視庁葬祭課26時 紀之貫 @kino_tsuranuki
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