第32話 呂氏の金鞭

 リョチという言葉は私の耳にも届いたけど、それが誰なのかはわからなかった。

 ただ、課長さんの顔が一瞬で険しくなったあたり、とんでもないことになっているのはわかる。

 もしかすると、あの爆弾魔だって、単なる前座でしかなかったのかも――


 悪い予感をなぞるように、課長さんが無線で指示を飛ばし始めた。


「相賀さん、今すぐ帰還して! ヘリをそちらに向かわせるわ!」


『了解』


 何が起きたのかも問うことなく、声を返すしのぶさん。胸の中で切迫感が膨らんでいく。


 次いで課長さんが、各警官部隊の指揮者に指示を飛ばしていった。とはいっても、未だ押し寄せる悪霊への迎撃態勢はそのまま。

 ただ、スタジオ内にリョチという新手が出た事を通達しただけだったけど……耳にした方々の様子が、目に見えて変わっている。これまで以上に空気が引き締まり、緊迫感に満ちていく。

 ふと空を見上げると、厚い雲の闇も心なしか暗がりが深まっていくような……


 課長さんは、現場指揮を一通り終えるても、今度は外部とのやり取りがあるとのこと。

「少しほったらかしにしてしまうわ。ごめんなさいね」と、こんな状況でも私に小さく頭を下げつつ、公用車の方へと走っていく。


 それから少しして、大通りの交差点にヘリが一機降りてきた。いつになく真剣な顔の相賀さんが下りてきたけど……私の顔を見るなり、表情が少し柔らかなものになる。

 しのぶさんは私の方に駆け寄り、背を何度か優しくたたいてくださった。


「お疲れ様です、大変だったでしょう?」


 間違いなく、ご自分の方が大変だったはずなのに、私の事を気遣ってくださっている。


「しのぶさんの方こそ……」


「慣れると楽しいですよ? でもま~、真似させたくはないですけどね。エクストリームスポーツみたいな」


 明るい調子のしのぶさんは、あえて意識的に、そのように振る舞っているように感じなくもない。

 実際、軽い感じはすぐに収まり、真剣な眼差しを私に向けてきた。


「課長は?」


「外部の方々と連絡を取り合っているところです」


「なるほど。ってことは、私はこのまま待機ですね」


 確かに、しのぶさん向けの言伝を承っていないから、そういうことになるのだと思う。

 ただ、次なる動きにある程度は察しがついているようで、しのぶさんはその場で屈伸を始めた。その目が向かう先は、ビル入り口。

 と、その時。しのぶさんが私の方に向いて尋ねてきた。


「ところで、平坂さんはリョチって知ってます?」


「いえ、不勉強なもので……」


「いやいや、ダイジョーブ! 私が学生だった頃より、よっぽどモノを知ってますって~」


 謙遜しつつ、朗らかに私を褒めてくださるしのぶさん。

 それでも、今のうちに知っておくべきと思った私は、スマホを取り出して指を伸ばした。

 これで、しのぶさんは色々と察しがついたみたい。


「リョは下呂温泉の呂、チは鳥のキジです」


「ありがとうございます!」


 さっそく、言われたとおりに入力していく私だけど……

「あっ、ちょっと待ってください」と、しのぶさん。


「どうしました?」


「ちょっと、ショッキングな情報がヒットするかも」


 ドキッとした私は、恐る恐るスマホの画面に視線を戻した。

 すでに呂雉という単語で検索した画面には、人豚という聞き慣れない単語が映し出されている。



 まさか、こんなビッグネームが現れるとは思わなかった。目の前にある悪夢に、全身がじっとり汗ばんでいく。

 先の爆弾魔もそれなりの奴だったけど、今回ばかりは、まったくもって存在の格が違う。

 それでも呑まれまいと身構える僕に、呂雉はニコリと笑いかけてきた。


「そなたも味わってみるがいい。我が金鞭の力を!」


 高らかで朗々とした声を張り上げ、ヤツはベルトから変じた鞭を振り上げた。キンべンって聞こえたから、おそらくは宝貝パオペエ的な武具だろう。

 生き物のようにしなるその鞭が、ヤツの手首のスナップで全身を躍動させる。手首や腕の切り替えしと同時に、鞭――いや、金色の蛇の頭部から、黒い輪状の衝撃波が走る。

 すると、耳を突くような破断音とともに、衝撃がスタジオ内の空気を強くかき乱した。

 鞭が直撃していないのに、この威力。


 頭の中を直接揺さぶられる感覚に襲われる中、乾いた破裂音が何度も響き渡り――

 何発かの牽制の後、本命の一撃が放たれる兆しを感じ取った。振り上げた腕から、しなやかに、そして力強く。波打つ力が金色の鞭に乗り、叩きつけられる。

 間一髪で横に飛び上がり、回避した僕の目の前で、打つ込まれた床は大きく穿うがたれ陥没している。

 あの爆弾魔を打ち付けたのは、ほんの手加減した余興でしかなかったらしい。

 額に冷や汗流れる僕に、ヤツは悠々と鞭を引き寄せた。その美貌に、困ったような微笑が浮かぶ。


「これ、動くでないわ。動かれると当たらぬであろうが」


「あいにくと、そういう趣味は無いんでね」


 すると、ヤツは空いた左手の人差し指で、額を何度かつつき始めた。


「とんだ不敬を働いたばかりではないか? 大人しく誅罰を受けるが良いわ!」


 しかし、それも結局は愉しむための口実に過ぎないのだろう。刑具を手にするその姿は、執行者としての正義よりも、単に嗜虐心を感じさせる。

 そして再び、ヤツは鞭を振り始めた。腕の往復とともに宙が悲鳴を上げ、視界がきしみ始める。


「さて、最初はどこに当たるであろうのう?」


「はッ! 手ずから刑具を振るうとは、皇后陛下も落ちたもんだな!」


「フフッ、何を言うか。自ら罰してこその私刑よ。貴様ら衆愚とて、その味を知らぬわけはあるまい!」


「私人感覚で上り詰めたヤツは、言うことが違うな!」


 しかし、いくらバカにしたところで、ヤツの余裕が崩れる様子はない。明らかに、武力において差がある。

 試しに護符を放ってみるも、鞭が放つ衝撃波の壁に阻まれ、なんら役をなすことなく細切れの紙片となっていく。

 先に爆弾魔を打ち据えた際、結界丸ごと破壊する威力を発揮していることからも、その力のほどは明らかだ。


 縦横無尽に宙を舞う鞭、間断なく放たれる衝撃波の連続。徐々に僕の逃げ場を削ぐように迫ってくる。

 スタジオを這うコードは寸断され、僕自身も無傷では済まない。服を軽々と超え、肌に裂傷が入っていくのがわかる。

 傷はまだ浅いけど、牽制程度でこれだ。


 そして……押し寄せる衝撃波の連続に堪えしのぐ中、背筋が凍る瞬間が訪れた。

 逃げ場がない。


 これをヤツも見逃さなかった。不幸中の幸いは、思い描いたところへと一撃が来た事、ただそれだけだった。せめて盾になればと、差し出した左腕に鞭が直撃し――

 思考が一瞬ふっ飛ぶほどの激痛に襲われる。

 そして、打たれた箇所に感覚はあるけど、腕全体が重くなる感じもあった。目にせずとも、腕に邪気が巻き付いているのがわかる。

 直撃を受けるたび、その部位が使い物にならなくなっていく、そういう武具なのだろう。


 まずは一発、食らわせたことにご満悦のご様子。ヤツは鞭を手元に引き寄せ、うっとりするような美しい笑顔を見せた。


「我が金鞭の味、どうであろう?」


「最悪だね。まったく……殷紂いんちゅうの後にアンタみたいなのが出てきたんじゃ、呂尚も聞仲も憤死するだろうよ」


「フフツ、面白いな。その声だけは、最期まで取り上げずに残してやろうぞ」


 これ見よがしに、ヤツは軽く鞭を振り始めた。

 こちらには打つ手がない。実銃も護符も無意味。一方、体力は削られるばかり。その上、直撃をもらえば即座に重しがのしかかる。

 それでも、まだ持ちこたえなければ。


 宙に刻まれる黒い輪に刻まれ、左半身全体に重みを感じながらも、僕は懸命に動き回った。なるべく直撃を貰わず、時間を稼ぐように。

 しかし、傷ひとつない向こうとこちらとで、優劣の差は目に見えていた。宙を叩く音が逃げ場を狭め――


 ついにもう一撃。右足首を打たれ、僕は前のめりに倒れ込んだ。激痛よりも、脚の先に感覚がないのが教命的だった。

 もう、逃げ回れそうにない。

 僕はどうにか動く右腕で上肢を少し起こし、寝返りを打った。

 ヤツは依然として余裕しゃくしゃくだ。嬉しそうな顔で声をかけてくる。


「どうした。もう終わりか?」


「……あ~、これ以上は無理だ。好きにしてくれ」


「つまらぬな。人にしてはよく頑張った方か」


 そう言って、ヤツは無感情な顔になり、鞭を振り上げた。次に打ったのは左脚。完全に動けなくする考えらしい。

 精一杯のたうつ頑張りを見せるのもバカバカしくなって、僕はヤツに提案を持ち掛けた。


「長く楽しみたいなら、首から上は残しておいてくれ」


「フフ、殊勝な心掛けではないか」


 満面の笑みを浮かべたヤツが、次に打ち付けたのは、僕の右腕。

 それから、感覚のない四肢に、次々と鞭が打ち据えるれる。打たれた衝撃で、ジャケパンの生地が破れて割け、刻まれた布の断片が宙に舞う。


「くそ……鞭で凌遅刑だなんて、正気の沙汰じゃないな」


 息も絶え絶えになって口にする僕に、ヤツは鼻で笑って応じた。


「くだらぬ。名に聞く葬祭課も、結局はこの程度だと?」


「ご存じのようで光栄だね」


 どうにか平静を装って応じたものの、注意を惹かれる発言ではあった。

 こいつが、葬祭課の事を知っているのは、別に不思議な事じゃない。社会に溶け込んでいれば、知る機会なんていくらでもある。

 僕の事を葬祭課の一員だと考えているのも、状況からの推察と思えば自然だ。

 気になったのは、別のところにある。

 どことなく――葬祭課と矛を交えること、それ自体を目的にしているように感じられたことだ。


 聞いても教えてくれるはずもないだろうけど、一応は下手したてに出て、僕は尋ねることにした。


「せめて、何が目的だったのか……それだけでも教えてくれないか?」


「猿芝居を止めよ」


 ヤツは僕のすぐ横に、鞭を打ち付けてきた。加減が効いているらしく、衝撃波が襲い掛かることはない。ただ、耳がしびれただけだ。

 まだ無事なもう一方の耳に、ヤツの声が届いてくる。


「隠している力があるのだろう? 下らぬ芝居はやめ、その力を見せてみるが良い。でなければ、次は首をはね落とすぞ」


 見抜かれている、あるいは知られている。

 いずれにせよ、僕に次があることを悟られているのは間違いない。

 ヤツが言う通り、もはや芝居には意味がないし、アレを野に放つわけにもいかない。

 この場で、完全に消滅させなければ。


 意を決して目を閉じると、遠くから落雷の音が聞こえた。ビルの壁を超えて、心の中まで。

 その中に混ざって聞こえる、男性の声が僕に呼びかけてくる。


晴明はるあきら』と。

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