第15話 命知らずの鬼ごっこ

 例の部屋のべランダから、男が一人身投げした。

 いや、ヤツ・・が追い詰められて死ぬつもりというわけじゃないのはわかっている。

 やはり、これも逃走経路の一つだったのだろう。その落下地点の先には、誰かが捨てたものと思われるマットレスが積み重なっている。廃棄者に対し、マンション管理人からの注意文章が貼られる形で。


――その上さらに、護符が何枚も。


 これに目ざとくも、ヤツは気づいたらしい。

 地に引かれて落下するその最中、ヤツは空中で身を翻らせ、3階べランダの外壁を強く踏みつけた・・・・・

 反動で体は落下点から大きくずれていき、体操選手も真っ青な身のこなしで着地。地面をゴロゴロ勢いよく転がって着地の衝撃を散らしていく。

 かと思えば、思わず惚れ惚れするような流れる動きでサッと起き上がり、マンション別棟へ駆け抜ける。

 事前に仕込んだマットレスも、結局はもしもの備えでしかなかったのだろう。頼らなくても、どうにかできるだけの身体能力はあったわけだ。


 その逃走先を見つめつつ、僕はマットレスの山に駆け寄った。僕の足で追っても、まず間に合わない。追い回すよりも、やるべきことはある。

 護符を回収しつつ上を見上げると、相賀さんが雨どい伝いに落ちてくるところだった。

 常人でもあり得そうなレベルにまで力を抑え・・・・、傷一つなく降り立った彼女は、「サポートお願いします!」とだけ言い残して駆けていく。


 彼女が追う先では、ヤツが階段も使わず、マンションの外壁伝いに登っていくところだ。

 状況が急変して、まだ1分も経っていない。それでも、後の方向性は大体つかめてきた。僕はさっそく矢島警部へと連絡を入れた。


 向こうも向こうでやるべきことは進めているようだ。

 居室の罠に気を付けつつ現場保全に務め、マンション側と連携し、住人が外へ出ないようにと非常用館内放送の段取りも進めている、と。

 この手際に、僕は感嘆の念を抱いた。


「ありがとうございます。住人を憑依先にされては厄介ですから」


『後は確保の手立てだが、そちらの指示に従って応援を送ろう』


「では、今逃げ込んでいる一棟へ、余剰の人員をお願いします。あそこから外へは出しませんので」


『了解した』


 話はスムーズで、わだかまりなど何一つなかった。だからこそ、逃がすわけにはいかない。

 この場を大きく離れる必要が出た僕は、再びスマホを手に取った。


「平坂さん」


『あ、天野さん。そちらは大丈夫ですか?』


「大丈夫。だけど、状況が動いたところでね。その車から決して出ないように」


――などと言っておいてなんだけど、「連れてきておいてこの仕打ちは……」と、思わないでもない。

 ただ、彼女は僕らの迷惑かけまいとしてくれているのか、従順に答えてくれた。


「わかりました! その、頑張ってください!」


「……ありがとう」


 涙が出そうなくらいに良い子の激励の声を胸に、僕は現場へと目を向けた。文字通り、マンションの外壁を縫うように動き回る二人の影。

(相賀さんにも聞かせてやりたかったな……)と思いながら、僕は援護にと動き出した。


 今のところ、ヤツは奪い取った生身を捨てる考えはないらしい。そっちの方が機動力があるからだろう。

 加えて、マンションの構造についてはャツの方が一日の長がある。相賀さんに追い回されながらも、どこかのタイミングで隙を突き、この場から離脱する考えに違いない。


 そこで僕は、霊の状態になって逃げられないようにと、マンションの周囲を巡って護符を展開していった。地面の四隅に貼った護符同士で、霊力の囲いが形成されていく。

 地上部分に展開した後は、問題となっているマンション屋上へ。

 管理人さんは、僕の手帳を見るなり即座に協力の姿勢を示してくれた。エレベーターの操作盤に専用のカギを差し込み、本来は立入禁止の機械室から屋上へ。


 屋上に足を踏み入れた僕は、柵の外側にも護符を巡らせていく。

 一通り貼り終えると、地上部に貼った護符と屋上部のものが結びつき、マンション一棟を覆う透き通った水色の結界が出来上がった。

 憑依済みの生身であれば、結界の出入りはどうにか可能。しかし、霊体で出入りするとなると、大きく力を削がれる。

 そんな危険を押してまで、生身を捨てて逃げるとなれば、逃走先は空中だろう。

 そうしたケースに備え、僕は屋上で待ち構えることに。


「――というわけで、屋上で待ち構えます。そちらは各階に人員配備を」


『了解した。すでに手分けし、動き出しているところだ』


 さすがに、捕り物とあっては向こうも手慣れたものだ。

 事ここに至ってはと、外に応援要請も済んでいるという話。ヤツは、もはや袋のネズミだ。

 となると、ヤツが取り得る最後の手段は――



 時にはベランダからベランダへ。事前に把握済みなのか、誰もいない居室を通り抜けることも。階段は使わず、手すりから雨どい、次いで欄干――

 追われる石川五右衛門の憑依体、追いかけるしのぶの二人は、マンションを縦横無尽に駆け抜けていく。

 マンション管理人から、緊急放送で外出禁止令を出してもらったのは正解だっただろう。このような命知らずのパルクールを目撃していれば、相当心臓に悪い。

 それに、撮影でもされれば、さらにコトだ。現代の義賊などともてはやされる、あの石川五右衛門の声望が高まりかねない。


 そんな稀代の大泥棒が、我が庭のようにアスレチック気分でマンション中を逃げ回るその後ろに、しのぶは食らいついていた。

 最初は余裕のある笑みを浮かべ、時折振り向いては挑発も入れていた五右衛門だが、その余裕はいつの間にか消え失せていた。

 奪った肉体からはとめどなく汗が流れていく。常人の限界を遥かに超える力を持ちながらも、この追手一人を振り切れないでいる。


 そして、彼の敵は一人だけではない。いつの間にかマンションを覆っていた、水色の結界が、彼の焦燥を掻き立てる。

 マンション外壁伝いの逃走を試みるたび、わずかながら肌を襲う刺激感。徐々に力が奪われていくのを、彼は否応なしに感じた。

 それに加え、普通の警官たちもマンション各階に配され、包囲の網を縮めてくる。本来であれば、何ら取るに足らない相手だというのに。


 場の全体をコントロールする結界の使い手、従来の警察機構のチームワーク。

 そして、人間離れした追跡者。

 五右衛門の逃げ場は、徐々に失われ――


 しかし、彼は諦めなかった。まだひとつ、とっておきの避難路がある。


 外壁から外壁へ、落ちては手すりをつかんで逃げていく五右衛門。しのぶが一階上から追い続けている。

 すると、五右衛門は奪った体で、ただ手すりを強く握りしめた。逃走劇開始以来、初めてその場に留まった彼を目に、しのぶが目を見開く。


「ちょっと! 置いて逃げる気!?」


 言うが早いか、彼女は外壁から降りて同じ階の手すりをつかんだ。

 だが、追っていた体はもぬけの殻――と言うには不適当か。本来の意識を取り戻したらしい青年が、強い恐怖と困惑で顔を歪ませている。荒い呼吸を繰り返し、ロから意味ある言葉が結ばれることはない。

 このまま放っておけば、彼は3階から地面へ落ちる。この憔悴ぶりで、無事に済むかどうか。

 肝心の五右衛門は、しのぶの視界にすでにない。借りた体を盾にして、下の階へ逃げ込んだか。霊の状態でも、警官たちに見えると良いのだが……

 それも希望的観測というものだろう。そして、五右衛門の計算の内だろう。


「あんのやろぉ!」


 口からつい苛立ちが出るも、彼女は人命救助を優先した。壁の外側に手を回して青年の手首をつかみ、必死に彼を引き上げる。

「誰か」と頼むまでもなく、左右からは配置についていた警官が寄ってきた。

 この青年が、利用されただけだったか、それとも何かしらの余罪があるか。いずれにしても、万一があってはならない、重要参考人だ。

 それに……真犯人に逃げられた格好のしのぶだが、こうなる予感はあった。そのうち、生身の体を捨てるのではないか、と。

 となると、次に打つ手は――


 思考を巡らしながらも、引き上げに注力する彼女の耳に、次なる動きを示す乾いた音が響いてきた。

 銃声である。

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