第2話 荒地
僕は、不機嫌さを纏った女神様の声を聞いたような気がした。仄かに紅茶の香りに包まれる。少しだけ涼やかなメントールと甘いミルクの薫香を感じる。創造神たる女神様の気配だ。
『……』
——ア、ハイ。イソギマス。
僕は、女神様に急き立てられ、漸く東に向けて歩み始めた。その瞬間、沢山の賽子が布張りのトレーの上を転がる音が聞こえたような気がした。総毛立つ感覚と共に唐突に風景が突然に切り替わった。
眼前には早秋のパタゴニアのような荒野が広がっている。空は、重苦しい灰色の雲が低く垂れ込めていて、吹く風は乾いている。そして冷たい。
『貴方は神域を越えました』
女神様と同じ声質ではあるがイントネーションが若干違う。より事務的で冷たい印象がする。消し忘れていた魂の記録にお知らせと同じ文が追加された。この事務的な告知はシスログさんとでも呼べば良いだろうか?
僕の詰まらない問いかけに女神様は透かさず応えてくれた。
『……』
——あ、世界の声ですか……
取り立てて必要性を感じ無いのだが、自動的にログが取れるというのは、ひょっとすると便利なのかもしれない。物臭な僕は日記などつけたことはないからよくわからないけどね。僕は、視界の片隅に表示させておいた魂の記録の表示を、ため息と共に消した。
続けて視線を落とせば、渋色の長靴に長袴が目に入った。身なりを確かめれば、丈長の上着の裾、それに粗い目の帆布で出来た大きめの肩掛け鞄を携えている。大草原にいたときは、スエットにジョギングシューズ、多分、死ぬ前の格好であろう。神域を出た瞬間にこの異世界に相応しい格好に換装されたようだ。眠たそうな薄紅色の瞳で自慢げな表情を浮かべた女神様の面影が浮かぶ。
——神力すげぇ……
いやいやと僕は自分自身に突っ込む。そもそもこの肉体が異世界に再構成されたことに驚愕すべきだろう。驚くポイントがズレている。僕は頭を軽く振った。若干、重い感じがする。
念のため振り返ってみれば、荒涼とした大地と枯れた木々に覆われたなだらかな山並み。先ほど迄の青い空に緑の大地は無い。視線を戻すと、さほど急でもない上り坂の先に道標と街道があった。人跡未踏の大草原よりはマシなのかもしれない。
だがしかし、ここは異世界。何が起こるかわからない。ヤバい輩が跳梁跋扈している、と女神様に告げられたではないか。しかもチュートリアルも無く、放り込まれた異世界の歴史も文化も動植物の生態も何もかもがわからない。まるでフロムのRPGだ。主人公が一歩踏み出せば、落下死するくらいにはハードモードだろう。令和の日本国でのほほんと暮らしていた三十路男が、この異世界で一体何ができるというのか?
ぐちぐちと考えながら街道に出た。曲がりくねった道の先、風塵に霞む城壁のようなものが見える。街道は舗装などなく、むき出しの土塊が風で巻き上げられる所為で、埃っぽいのは仕方がないのだろう。
気を取り直して、歩を進めようとするが、体が動かない。背後からの殺気。振り返れば、先ほどまで何も無かった場所、15メートルほどの距離にミニバン程の大きさの四つ足の獣がいた。地球の猪の倍以上の大きさ、白サイの成体のようなサイズだ。白サイなら東武動物公園で見たことがある。
でかい。猪。牙。突進。疾い。避けられない。拙い。という意識とは裏腹に、僕の身体は瞬時に反応して、大猪の突進を楽々と躱した。
——勇者すげぇ……
フロムゲーなら死んでいた。どうやらこの世界はそれほど鬼畜ではないのかもしれない。二度、三度と大猪の突進を交わしてはいるが、このままでは埒が明かない。大猪の方もかなり気が立っているようだ。ここらで反撃して、追い払わなければ、いずれはあの牙に身体を抉られるかもしれない。大猪の体から赤黒い靄が漏れ始め、目の色が赤々と輝く、拙い状況に陥りつつあることだけは判る。
——武器はないのだろうか?
『ジョン・ブル・魂ッ!』
突然、視界を異世界文字列が塞ぐ。同時に猪が突進してくる。危ない。一拍遅れた所為で、すれ違いざまに大猪が振った奴の頭部によって、僕の体が弾かれる。牙に引っ掛けられなかったのは幸運だった。街道から弾き出され、盛り土の緩い坂を転がり落ちる。ぐるぐると回転する視界。その間も異世界文字だけが回ることなく眼前に浮かんでいた。
『ジョン・ブル・魂ッ!』
——邪魔だ。クソボケ!
物に八つ当たりするということは、心が成長していない証拠だ。だが三十路男(童貞)とはいえ、時と場合をわきまえない
全くもって物凄く腹立たしい。取り分け、ルビ表示の魂ッ!に心が苛つく。邪魔だとばかりに半物理的な存在の異世界文字列に拳を叩きつけた。
——命がかかっているのだッ!
異世界文字列のジョン・ブル・魂ッ!が、ぱぁんと弾けると光の粒子となって霧散した。
『貴方はショート・マガジン リー・エンフィールド Mk IIIを召喚しました』
——なん…だと…?
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