第3話 戻り時計
離婚。やはりそれは考えなかった。二人の子供の存在はそれを考えない重要な要素だったし、それになにより圭介の愛情が自分に注がれ続けていることは十分すぎるほど感じていた。八年前に知ったことも今回のことも、不倫などという色のあるものではなく、あきらかに遊びだろう。そこには相手に対する心なんて大層なものは、全く感じられないものだった。
それでも紗月の心には隙間ができたし、心に燻ぶっていた消えきれていない染みは、消えきれないまま広がっただけだった。ひたすらに紗月への愛を態度で示し続ける圭介は、家族として暮らしていくには申し分ない存在にもなっている。稼ぎは全て紗月に渡していたし、紗月が面倒に思う地域の行事や役割には率先して圭介が出ていたし、常に紗月を尊重してくれていた。今までの充実していた紗月の人生を考えたら、そうしたものを捨ててやり直すことを考えるには、それらは重すぎた。
完璧な人などいない。そう思うことにした。何を重要視してどこに目を瞑るか。ここは生きていく場所として捨てるには惜しい。
そんな時、あの時計に出会った。
昨日から寝室に置いていた目覚まし時計の調子が悪く、朝、メロディーが流れて起こしてくれる、そのメロディーが途切れるのだ。買いに出てもいいが、鳴ることは鳴るので急いではいない。朝の家事を済ませたあと、なんとなくネットで個人で売買できるサイトを見ていた。その時、なぜかその時計に目が留まったのだ。半月状になっているその時計に自分の名前を重ねたからかもしれない。
「戻り時計?」戻り時計って、なんだろう?商品詳細のところに、目覚まし機能付きと書いてある。
値段を見ると千円になっていた。目覚まし時計を千円で買えるなら随分とお得だなと思った紗月は、迷いなくポチっとした。いつも通りネット購入専用にしている口座からの圭介名義の支払いだ。
そうして届いた時計を前に、紗月は戸惑っていた。
その箱を開け時計を取り出すと、半月状の時計はネットで目にした時と同じ、月を思わせる金色で角も丸みがあるもので印象としては柔らかなものだった。取り出してみると、底の部分に一枚の古びた紙が入っていることに気付いた。
「取扱説明書?」
時計に取扱説明書……まあ、あるか。時計など説明書など見なくてもだいたいセットできるものだし、中古品でちゃんと説明書が入っているなんて、もともとの持ち主はそうしたものも捨てずに取っておくキチンとした人なんだなと感心した。
それにしても……随分と古そうだな。
時計の綺麗さと説明書の古さが比例せず違和感を感じたが、まず説明書を読んでみるかと広げてみた。
戻り時計取扱説明書
後ろの過去ボタンを使い、過去の戻りたい日時をセットする。
後ろの未来ボタンを使い、過去の戻りたい日時から戻りたい時点をセットする。ただし、今現在より未来の時点へは戻れない。
セットをしたら、両端にある二つのボタンを同時に押す。
戻り時計は計三回まで使用可能。
え?どういうこと?戻りたい日時をセットっていうのはなんとなくわかる。その次の戻りたい時点っていうのは……つまり、戻った日時から戻ってくる日時ってこと?
過去のどこかで何かをやり直して、そこから戻ってきたときにどういう未来になっているのかを知ることができるってこと?
これで全部かと思い説明書を畳もうとして、説明書の余白部分にある薄くなったその走り書きに気が付いた。
『三回とも必ず今現在の時点に戻ることをお勧めします』
そう書かれているその下に、
『三回目は元の過去を変えずに購入前に戻ることをお勧めします』と書いてある。
つまり、これは筆跡からして今までに最低でも二人の人が手にし、戻り時計を使ってみたということか。一回目に使ってみた人は、三回とも今現在に戻ったほうがいいというのは、なんとなく理解できる気がする。今より前の時点に戻ったとき、この時計の存在を知らない状態に戻ってしまうのではないか。その不安があるとしたら、やはり戻るのは今にしたほうがいい。
そしてもう一人が書いた、三回目は過去を変えずに購入前にという言葉には大きな意図を感じる。つまり変えたらよくなるとは限らない。今がどうしても変えたいほどの不満がなければ、いっそ変えないほうがいいと言っているのだ。
そこまで考えて、紗月はハタと気が付いた。そう、これを使うのをもう少し先延ばしにすればいいのだ。例えば明日使ってみて、戻るのを今日にすれば、時計を手にしたままの自分に戻れる。そこでいじった過去のせいで今が満足できるものでなければ、二回目にはまた明日使ってみて今日に戻ってみればいい。そしてそこも満足できる今でなければ……なるほど、変えなかった過去のままで購入前に戻れば今現在で、時計の存在を知らない自分に戻れるってことだ。
胸が高鳴るのを感じた。
紗月の気持ちはその時点で、この時計を使ってみようという気持ちに固まりつつあった。本当に過去に戻れるかどうかは、わからないけれど、二回どんなことが起こっても、三回目は必ず今の自分に戻れるのだ。
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