第4話 使う

 では、いつこれを使ってみるのかを紗月は考えた。明日使って今日に戻るというのは少し性急すぎる気がした。事はもう少し慎重に運ばねばならない。まず自分を落ち着かせることが大事だ。そして過去のどの時点に戻るのか、それが重要だということもわかっている。


 まず、二人の子供たちがいない人生などは考えられない。子供たちの存在は絶対になかったことにはできない。ならば、圭介の遊びなど何も知らないでいた時に戻れば、圭介の愛情も自分の愛情も一点も曇りもなく信じられるのか……あの、八年前にゲームしようと圭介のスマホを開かない人生。


 ……いや、知らないままで圭介が同じことを繰り返す人生など、真っ平ごめんだ。いや、でも知らなければなかったことにはならないか……


 堂々巡りを繰り返し行き着いた考えは、大学三年のあの日、あの夜をあのひとと過ごさねば、圭介はそこに足を踏み入れることなどなかったのではないか。そこだった。


 チャンスは三回。決して多い回数ではないが、まず一回目をやってみるのもありだ。それで、そんな遊びをしなかった今の圭介がここにいれば、それでいい。


 ……と、この戻り時計というものが本当にそんなことができる時計ならば……だが。


過去日時 2008年 12月10日 18時


未来日時 2022年 5月17日 10時


 過去から戻ってくるのは一週間後の17日。17日はは火曜日だ。圭介は仕事だし、小学生の娘も、幼稚園に通う息子も、もういない時間だ。過去から戻っても、落ち着いて状況を見られる時間だ。


 そう決めた紗月は、18日に戻り時計のセットをしてみることに決めた。


 そこからの一週間は、特に何事も起こらないよう意識しながら過ごした。大きな出来事があったなら、その週はなかったことにはできなくなる。


 戻ってくる未来に決めた17日も、いつも通り大きく予定が変わる出来事もなく過ぎた。夫はいつも通り出勤したし、子供たちも同じ時間に出て、同じ時間に帰ってきた。家族が外にいる時間、紗月の時間は自由だ。やはり、明日決行しよう。


 そういう状況になったら女遊びしてみようと考えることのない圭介。紗月だけを愛し大切にし、家庭を第一に考え、いいパパでいる今の圭介がいて二人の子供がいて、まっさらな心でそれを信じられる紗月がそこにいると信じて……



 ―――いざ、決行だ。


 土曜に圭介が新しく買い替えてきた、徐々に音が大きくなる目覚まし時計の音がするより早くから目覚めていた紗月は、音が始まると同時にそれを止めた。やはり興奮していたのだろうか。隣に眠る圭介は何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか全く気付く様子もなく、まだ深い眠りにいる。紗月はそこに冷ややかな目を向け、ベッドから立ち上がった。


 いつも通りの朝食を用意し、いつも通りに四人で朝食をとり、いつも通りに圭介が長女の美月と家を出て集団登校の集合場所まで美月を送り、幼稚園で友達と遊ぶのが楽しくてしかたない、朝からやたらテンションの高い、月は大きく美しく輝くものだと圭介が名付けた大輝をいつも通り幼稚園まで送り、ママ友の誰にもつかまらないように、急いでいます風に足早に家まで家まで帰ってきた紗月は、いつも以上に手早く朝の家事を済ませた。


 さて……そう思った瞬間、急に鼓動が大きくなってきた。まずコーヒーでも飲んで心を落ち着かせよう。そう思いキッチンへ向かったが、いやまてよ、コーヒーなど飲んだらトイレが近くなるではないか。それはたぶん、マズイ。落ち着け……落ち着け。


 紗月は大きく数回呼吸をし、寝室のクローゼットの自分のものが入った引き出しの奥から『戻り時計』を取り出した。


 ベッドに腰かけ、過去日時に間違いがないことを記憶で確認し、過去から戻るのは何事もなく平穏に過ごした昨日の今の日時にして、両端のセットボタンを両手の人差し指で同時に押した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る