第5話 過去

「ちょっと紗月、起きて。どうしたの?居眠りなんて……疲れてるんだったら、帰ろうか」


 えっ?……ここ、……そうだ、2008年12月10日……ここは、大学でできた友達の絵美とよく来ていたカフェだ。そうだ、圭介が飲み会に行くから、この日は絵美とカフェでお茶してから食材を買って絵美の部屋で一緒にご飯した日だ。


「どうしちゃったの?ボーっとして……具合悪いなら今日は止めにしとく?圭介君、呼ぼうか?」


 圭介。……そう、圭介だ。


「ごめん。なんか気持ち悪いかも……圭介には自分で連絡するから」


 そう言って席を立った紗月はトイレに向かった。今日、圭介は飲み会を止めて紗月のところに来るだろう。気分が悪いからそばにいてと言えば、圭介はすっ飛んでくるはずだ。圭介は紗月の頼みを断ることはまずない。だからこそ、紗月もどうしても無理な頼みなどはしたことがない。


 圭介とは大学は違ったが同じ県内の大学に通っていたため、部屋の行き来は大変なことではない。というか、そうしていた。圭介の愛を一身に受けた未来には希望しかなかった。


 この夜、圭介の腕の中にいたのは、紗月だった。



―――そして目覚めた。


 戻る未来は設定どおりの2022年の、5月17日。


「えっ?……ここ、実家……私の部屋だ……よね?」


 紗月の胸は跳ね上がり、大きく戸惑った。


 時計、時計……あ、あった。


 枕元にある『戻り時計』を確認すると、間違いなくセットした2022年5月17日だ。紗月は枕元にあるスマホを手にしライン画面を出してチェックした。圭介の名前がない。ママ友の名前がない。美月の学校の連絡用の一斉ラインがない……大輝の幼稚園も、ない。


 紗月の身体中は総毛立ち、震える身体の熱くなった目頭からは涙がポタポタと落ち始めた。


「ダメだ。戻らなきゃ。ダメだ……戻らなきゃ……こんなの、ダメだ」


 戻ろう。元の場所へ。圭介と美月、大輝のいるところへ。


 そう思った紗月は『戻り時計』を手にし、過去に戻る場所をセットしようとし、ハッとした。そうだ、このセットは二回目になるんだ。チャンスは三回。考えてみたら三回しか『戻り時計』は使えないのだ。事は慎重に進めなければならない。間違えられない。


 戻る過去は、2008年12月10日18時だ。そこで飲み会に行く圭介を引き留めてはならない。圭介は飲み会に行き、紗月は絵美の部屋で夕食を取る。元々あった過去に戻すんだ。そして、戻るのは……今日17日でいいのだろうか……いや、もしかしたら最初に書き込みをした人が、今現在に戻れと書いてたではないか。ならば戻る未来は18日だ。いや、待てよ……次に使った人は時計を手にする前にとも書いていた。どちらだ……どっちの未来に戻ればいい。


 落ち着け……落ち着け、紗月。そう自分に言い聞かせるようにして、もっと冷静に考えるよう自分に言い聞かせた。


 そうだ。あと二回使えるんだ。思いもよらない未来になっていたことで、大きく動揺したけれど、とりあえず二回目で変えない過去にしておいて戻る未来を前日ではなく使用したその瞬間にすればいい。そうしよう。たった一日でも戻る未来を前日という過去にした瞬間、何かが変わる気がして、紗月は怖くなったのだ。


 紗月は過去時間を2008年の12月10日18時にセットし、未来時間を2022年5月18日10時にセットしてから、両端のボタンを同時に押した。


 

―――ああ、眠ってたんだ。


 ベッドから起き上がった紗月は、重い頭を持ち上げながら、美月と大輝のいない夢なんて、なんでそんな夢を見ちゃったんだろうとボーっとした頭で夢を思い返しながら、ハッとした。


「美月……大輝……」


 慌ててベッドから下り子ども部屋に向かうと、今までと変わりない子供部屋がそこにあった。まだ新しい美月の机には、今朝見たのと同じで、ランドセルから出して行った、書き終えた自由帳が一冊置いてあった。


 ああ、よかった。戻れたんだ。やっぱり今現在の未来に戻って正解だった。紗月は心底ホッとした。何も変わらない今、ここは私の大事な場所だ。


 今の暮らしに不満などない。傍から見ても幸せそうな一家に見えるだろう。そう、不満など何もなかったのだ。ただ、心の欠片もない遊びだとわかっていても、圭介に他の女に触れて欲しくなかっただけだ。


 それは、紗月の心にとって人を愛するその心に影を落とした。


 私は、ただ、自分の心の全てを圭介を愛することに注ぎたかっただけなのに。打ち砕かれたその想いは、紗月にとって最も尊いものだったのに。

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