第32話 再会

 それから一ヶ月ほど経った頃、母が虫垂炎で入院した。六十半ばで虫垂炎か?と、子供が罹るものだと思い込んでいた祥吾は驚いたものだが、それまで病院というものに世話になったのが祥吾や祥吾の兄の祥太を出産するときくらいだった母が、たかだか一週間やそこらの入院でも不安がってるかと思い、一度くらい見舞いにと思い顔を出した。それだけで済む話だった。


「あら?坂野さん……どうかなさったんですか?」


 エレベーターホールから出て入り口通路へ向かう廊下で声を掛けられ、その聞き覚えのある声に視線を向けると、そこに美緒がいた。


「ああ、滝本さん。こんにちは。いや、母が入院していましてね……そうか、滝本さん、ここでしたね」


「そうでしたか。私、坂野さんかなと思って、嬉しくてつい声をかけてしまいました。お母様が入院されているんですね。それはお見舞い申し上げます」


 嬉しくて……その言葉にドキリとした。嬉しくて?……嬉しくて?……嬉しい?自分に対していい印象を持ってもらえているんだなと、嬉しくなった。


「ありがとうございます。まあ病気っていっても盲腸ですから、すぐに退院するんですけどね」


「そうなんですね、盲腸だって、甘くみたら怖いですよ。でもすぐに退院と聞いて安心しました。でもそっか、じゃあ病院で偶然坂野さんに会えることって、もうないのかな。残念」


 残念?残念って言った?……残念?会えたことを喜んでもらえてる?会えなくて残念?なんだろうこの気持ち。心をくすぐられている……そんな感じか。


「そうですね、残念です。お住まいのほうはいかがですか?何か心配なことや不安なことがありましたら、いつでも連絡ください」


「ありがとうございます。と、そう、ちょっと気になることがあって……」


「えっ?何かありました?」


「いや、大したことじゃないんです。気のせいかもしれないので……」


「気のせいでも気になるんですよね?」


「あ、はい、……あの、キッチンの水はけがなんか遅い気がしてて」


「そうなんですか?一度見させてもらってもいいですか?えーっと、今日はこれから一つ内覧が入っているので今日だと夕方になってしまうのですが……明日もちょっと空いている時間が……明後日なら午後行けますけど」


「私の方はいつでもいいんですけど、今日なら今日でも……」


「そうですか、では夕方でいいですか?滝本さんの仕事終わりに合わせますので」


「はい。では終わったらすぐに帰りますので、近いので17時半以降なら大丈夫だと思います」


 近いのでと言ったとき、美緒は祥吾に向かってニコリとした。近いって、知ってるでしょ。そう言われた気がした。


 祥吾は夕方が近づくにつれ、何やら落ち着かない気持ちになってきた。時計を眺め、少し早めに行ってピッタリ半に行った方がいいか、いや、ほんの少し早い方がいいか、いや、それだと出るのを焦らせるんじゃないか……でも遅れるのは失礼だし、やはり早めに行って半ピッタリにしよう。早めに出よう。夕方だと道も混むしな……そうだ、何か持って行った方がいいか?仕事終わりで疲れているだろうから、甘いものとか……いや、しないしない、普通そんなことしない。不動産屋が部屋の気になる部分を確認しにいくのにスイーツはないだろ。何か下心があると思われても……


 何やってんだ。何考えてんだ。ないないないない。あの子は多分、純粋な子なのだ。ただの軽い感情でさえ口に出すのが自然なことで、そこに深い意味などない。惑わされるな祥吾。


 そして美緒の部屋に着いたのは、結局17時半を少し過ぎた頃だった。思ってた以上に道が混んでいたのだ。


「遅くなってすみません」


「いえ、急に頼んだのはこちらの方ですから、すみません、もう就業時間も過ぎてますよね?」


「いえ、大丈夫ですよ。お客様の時間に合わせるのも仕事ですから」


 そうして美緒の部屋に上がりキッチンの排水をチェックした。なるほど確かに微妙に遅いような気もして排水溝に設置してあるゴミ受けを持ち上げようとした。すると、美緒の手が伸びてきて、祥吾の手の甲を押さえた。


「あの、……あの、なんかそこ見られるの恥ずかしいです」


「あっ、失礼しました。でも、ちょっと中をのぞかせてもらわないと……」


「ですよね、そうですね、そうですけど……なんか、汚れてるところ見られるの恥ずかしいなって……」


「大丈夫ですよ、ちゃんと掃除されているじゃないですか。排水溝の中なんて、どこも同じですよ。そんなにピカピカになっているものじゃないですし、慣れてますから」


「ごめんなさい。そうですよね、ごめんなさい」


 なんか、可愛いなと思った。こんなふうに女性が恥じらう姿、今まで見たことなかったと思う。なんか、可愛いな……


 手のひらサイズの懐中電灯の光を当てながら排水溝を覗くと、微かに何か見える気がした。細い棒状にも見えるようだ。これは自分では無理だ。


「すみません。確かに何か引っ掛かっているように見えます。こちらのミスです。業者に連絡し、早急に対処させていただきます」


「そうですか……でもよかった。勘違いだったらわざわざ坂野さんに来ていただいて、申し訳けなくなるところでした」


「いえいえ、気になることがあったら言ってください。気持ちよく暮らしていただきたいですから」


「ありがとうございます。あっ、手を洗ってくださいね。今、お茶入れますから。あっ、コーヒーのほうがいいかな?」


「いえいえ、仕事ですからそんなお構いはいいですよ」


「ううん、もしよかったら飲んでいってください。そうしてください。お茶とコーヒーどちらがいいですか?」


「ありがとうございます。どちらでもいいです。どちらも好きです」


 そして美緒がお茶を入れている最中、キッチンの隅から出てきたゴキブリに驚き、祥吾が履いていたスリッパを持ちゴキブリを叩こうとした瞬間、それが美緒に向かって飛んだ。


「きゃ~っ」


 そう叫んだ美緒を祥吾がかばい、気づいた時には美緒が祥吾の胸の中にいた。


 美緒から身体を離して「すみません」と言う祥吾に、美緒は「いえ、ごめんなさい。私、驚いて」震えているように見えた。そう見えてしまった。


「大丈夫ですよ」


 祥吾は、一度離した美緒の身体を自分に引き寄せた。


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