第38話 再会
学校から帰ると、ランドセルを置くが早いか清恵はいつも「お寺に行ってくる」と家を飛び出した。家に母親でもいれば、手を洗いなさい。宿題を先にしなさいと小言の一つもあっただろうが、清恵の両親は代々続く農業を夫婦でやっており、家には祖母が留守居をしているだけで、清恵にうるさく言うことはなかった。
家の前の通りを挟むように並ぶ家々の脇道を抜け、その先に広がる田んぼの間にある道を山に向かって歩き、その山の中腹にある寺を目指す。いや、正確には寺の脇に建つ未知留の家を目指した。以前は丁稚と呼ばれる奉公人が寝起きしていたところだ。
未知留の父親は酒癖が悪かった。母親は未知留を産んですぐに亡くなっており、その頃から酒量が増え、仕事もままならなくなり寺の手伝いをしながら、未知留とそこで暮らしていた。父子だけになり、酒を飲んでは暴れる男を住職が監視するために住まわせてるんだと、村ではそんな言葉が囁かかれていた。
それなのに……傷だらけの未知留を見て清恵は住職に怒りを覚えていた。監視してくれるんじゃなかったのかと。
「そうは言っても、夜中まではねぇ……」
そんなことを言う祖母にも怒りを覚えたほどだった。
そんなふうだったから、大人たちは未知留に優しく接していたし、未知留の父親に苦言を呈する人もいたが、それでも、酒を飲んで手が出る未知留の父に身体ごとぶつかってくれる大人はほとんどいなかった。殴られれば痛い思いをするし、酔って暴れる加減のないその痛みは、大人といえど簡単に受け止められるものではなかったのだろう。それは、自分が大人になってからなら清恵も理解できた。
未知留はいつも何かに怯えているような、そんな弱々しさを湛えた姿は清恵に同情という名の正義感を抱かせていた。未知留の父親を恐れる同級生たちは、表立って未知留を虐めたりはしないが、近寄りもしなかった。そんな未知留と一緒にいるようになったのは、同じ産院で二人の生まれた日が近かったため、酒を飲んでいないときの未知留の父親の豊が、母親のいなくなった未知留の子育てに、清恵の母の里恵を頼ったことがきっかけだった。酒に溺れる前の豊は、一応、未知留を一生懸命育てようとしていたそうだ。けれど、妻のいない初めての子育ての、一日中の育児は、豊かには厳しかった。
そうして酒に溺れるようになった豊を横目に、それでも里恵は未知留に気も心も配り、手も貸していた。そのため、酒に酔ってもよほどでない限りは里恵にも清恵にも暴言を吐いたり脅すようなことはなかったが、よほどが過ぎると豊かには自分を抑えることができなくなっていた。その豊のかすかに残る理性だけを頼りに、里恵は未知留を手助けていた。
そんな二人が五年生の冬、未知留に悲劇的な出来事が起こったのだ。
雪のチラつく寒い夜、眠りについた未知留は怒号と強烈な痛みで覚醒し、震えながら裸足で住職が眠る寺に逃げ込んだ。泥酔した豊が未知留に投げつけたストーブにかけられていた薬缶は、焼けるほど熱くなっていた。
未知留の身体にいくつも残っていた傷に新しく加わったものは、簡単には消えない傷となり、未知留は毎日自分の顔を鏡に映すたび、それを目にすることになった。
そして一年後、未知留が清恵の家に泊まりに来ていた冬の夜、家族が寝静まったあと、二人で家を抜け出して、相変わらず泥酔したままで寝ている豊のそばで消えていたストーブを二人で倒し、用意していたタコ糸の端を豊の腕に巻き付け、ストーブから漏れ出ている液体の上を通し玄関口まで引いたその糸に火をつけ、二人は急いで歩き慣れたあぜ道を戻ってきた。
あの日からこの歳になるまで、未知留とほとんど口を利かないまま離れ離れになっていた。六年生の冬、一人ぼっちになった未知留は施設に行くことになり、「手紙書くね」と去った未知留から、手紙が来たことは一度もなかった。
駅前のギャラリーでそれが未知留だとすぐにわかった。髪で火傷を隠すようにしているのは、あの頃のままで、やはりあの傷は消えなかったのだと思い、胸が痛んだ。
並んだ絵はどれもが一度は目にしたような景色だったが、ふと目を留めたその一枚の絵は、懐かしいという言葉では片づけられないもので、清恵の心の中で燃える焔がそれを包み込んだ。
「清恵ちゃん?」
「未知留ちゃん……」
そう声をかけたのはどちらが先だったか。
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