第11話 疑念
いつまでこの姿勢でいたのだろう。足の付け根に痛みを感じ顔を上げると、外はオレンジが消えかかっていた。
「ああ、窓を閉めなくては」
よっこらしょと立ち上がろうとして、一瞬、ふらついた。ああ、気をつけなくては……
どれだけ考えていても、これの意味が分からない。和彦がどう使ったのか、使わなかったのかも分からない。もしかして和彦の使い方で自分の何かも変わっていたのだろうか?私には分からない。知りたくても、もう、和彦には聞けないのだから。
ハッとした。
聞けない?……そうか、これを使えば聞けるということなのではないか。こんなものを見つけたんだけど、これは何?どういう使い方をしたんだ?と。
いや、教えてはくれないだろう。こんなふうに隠していたのだから、聞いたところで惚けるか……嘘をつかれるのかもしれない。それに、それを知ってどうする?私は、後悔するような人生ではなかったではないか。
思い返せばどこの家庭でも起こりそうな小さなゴタゴタはあったしケンカもあった。が、和彦との幸せを感じることのできる日々を思い返し、改めてこれは必要のないものだと、元あった箱へ戻そうとして閃いた。
これを使えば、あの和彦の最期の瞬間、和彦の手を握っててやれるのではないか。あの日に戻って……
そう思いついてから、雪乃はそのことで頭の中がいっぱいになった。長い時間ではない。朝ご飯を食べてから洗濯物など干さずに和彦の横に座ればいい。「なんだ?洗濯もんは干したのか?」そんなふうに言われるかもしれない。そうしたら、「まだ終わらないんですよ。お茶でも飲みますか」なんて言って、和彦の好きなお茶を入れよう。……いや、ダメだ。手を離したらダメだった。「まだ終わらないんですよ。あら、爪が長くなってきたわね。そろそろ切りましょうか」そう言ってみるのもいいか。そんなに長く話をしている時間はないのかもしれない。ただ、しみじみと二人で生きられてよかった。そんな言葉をかけながら、手を握っているだけでいいのかもしれない。
戻ろう。あの日へ……
戻る過去 1996年 5月1日 7時
戻る未来 1996年 7月21日 18時
そう思いついた雪乃は、後先考えることなくすぐに時計をセットし、両端にあるセットボタンを、時間画面を目に捉えたまま両手の人差し指で押した。
「おい、どうした?具合でも悪いのか?」
雪乃は聞きなれた声のした方に顔を向けた。
「ああ、おじいさん……」
「なんだ?寝ぼけてるのか?」
「え?あら、私、なぜソファに……」
ハッとした。そうだ、おじいさんがいる。そうだ、戻れたんだ……
「どうしたんだ?具合が悪いなら寝てろ。あとは俺がやるから」
「ううん、大丈夫。さあ、ご飯にしましょう。早く食べないとお昼のあんころに響いちゃうわ」
雪乃はそう言いながら、何度も繰り返し思い返したこの日の朝の行動を、朝食を終えるまでをなぞるように行った。そして洗濯物を干しに行く時間がくるとそれをせずに、和彦の好きなお茶を、朝ご飯でも飲んでいたお茶を淹れて、和彦が座るソファの隣に座った。
「なんだ珍しいな」
「なんかまたお茶が飲みたくなっちゃって。お茶に付き合ってくださいよ」
「あんころ食べる時も飲むだろう。あんまり飲むと、お前トイレ近くなるぞ」
「あんころの時は今日はお抹茶にしましょうよ。たまにはいいわ」
「抹茶か。それもいいなぁ」
―――ガシャン
「おじいさん、おじいさん……おじいさんっ」
ああ、こんなにすぐのことだったんだ……庭いじりどころか、洗濯物を干していた頃ではないか。
それからのことは、ただ慌てていた。当初の考えなど消え失せ、とにかく急がなければ、急いで病院に運べばもしかしたら助けられるかもしれない。そう思った雪乃は急いで119番を押して救急車を呼んだ。ただ手を握っていてあげよう。そう思っていたことは頭の中からすっかり消えていた。
ICUに運ばれた和彦は早い手当で一命を取り留めた。
そうだ、和彦は命を取り留めることができたのだ。雪乃は慌てて駆け付けた晴美夫婦と手を取り合ってホッと胸を撫で下ろし、この時計を使ってよかった。本当によかったと、夕方家に帰り着いてから時計を手にしてそれを撫でた。
「よかった。これで今日に戻ったときに、そこにはおじいさんがいるわ。あんころもまた一緒に食べられる」
雪乃はその日一日の疲れも相まって、そのままソファに座ったまま眠りに吸い込まれて行った。
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