第34話 戻り時計

 二日後、いつものように職場に確実にいる時間指定で送られてきたそれを開けて、祥吾はもしかしたら……という気持ちになった。それは、取扱説明書の余白に書かれた文言を目にしたからだ。



   戻り時計取扱説明書



後ろの過去ボタンを使い、過去の戻りたい日時をセットする。


後ろの未来ボタンを使い、過去の戻りたい日時から戻りたい時点をセットする。ただし、今現在より未来の時点へは戻れない。


セットをしたら、両端にある二つのボタンを同時に押す。


戻り時計は計三回まで使用可能。



 そしてこの年季の入った用紙の余白には、こう書かれていた。


『三回とも必ず今現在の時点に戻ることをお勧めします』


『三回目は元の過去を変えずに購入前に戻ることをお勧めします』


『三回しか使えない意味を考えて使用することをお勧めします』


 


 つまりなんだ、これは……本物かっ。


 祥吾は自分の鼓動が大きくなっていくことを感じた。これは本物だ。使えるぞ。戻り時計だ……本物だ、やり直せる。


 それからの祥吾の動きは早かった。戻り時計が本当にあったら、あの日からやり直したい。ずっとそう思っていた。あの日だ。はじめて美緒に会ったあの日。左手の薬指にはめられた指輪、あれは女性のお客様を安心させるためではなく、家族がいるのだということを、ちゃんと美緒に伝えなければ。


 そう、答えは出ている。家族を失うのは絶対に嫌だ。このままだと美緒を不幸にしてしまう。そうしてしまうのは自分自身だ。美緒の未来を台無しにしたくない。美緒のことが好きだから……


「内覧に行ってきます。今日はそのまま直帰しますから」


 事務の笹山さんにそう伝え、カバンと小箱を抱えて車に乗りこんだ。平静を装っていたが、思いのほか慌てていたようで、乗り込むときに小箱を落としそうになった。アッと、手を添えようとして小箱ではなくカバンを落とした。


「ふっ」 


 何だか可笑しくなった。祥吾は仕事用のスマホを開くと、美緒にラインした。


『仕事が早く終わりそうだから、今夜行けそうだよ。ケーキでも買って行くよ』


『ホント!?わぁ、嬉しい。じゃあ祥ちゃんの好きなクリームシチュー作るね』


 もう一度だけ、もう一度だけ美緒に触れたいと思った。今夜、帰りが遅くなると妻の美晴には連絡してあった。実家の物置化している自分の部屋で、早速今夜戻ってと思ったが、戻ってやり直して二度と美緒に会えないと思うと、何か胸に重い石を放り込まれたような、そんな気持ちになった。本当は、美緒も失いたくない。


「あっ」


 そうだ。これが本物だったら戻れるじゃないか。ただのお客様に戻った美緒の世界がどうしても無理だったら、その時はまた戻ってやり直せばいい。


 そう、三回やり直せると書いてあったではないか。だったら、まず美緒と付き合わない人生をやり直してみて、それが無理だったら……無理だったらどうしよう。美晴と別れる人生か?どう言えばいい?「好きな人ができたから離婚してくれ?」いやいや、無理無理無理……そんなことできるわけない。言えるわけない。


「あっ」


 そうだ、言えるわけないんだから、言わなくていい人生にしておけばいいんじゃないか?美晴と付き合わない人生。美晴と結婚しない人生。そうしておけば、美緒と出会ったとき、何の障害もなく美緒との人生を生きられるんじゃないか。


 祥吾はどちらも選べると気づき、両方を経験してみればいいんだと思い至り、目の前が開け気になった。が、そこでふと気づいた。美晴と結婚しない人生を選んだら、子供たちはどうなるんだ?生まれてこないってことじゃないか?それはダメだ。やはりそれはできない。やっぱり美晴と別れることなんか無理だ。子供たちと離れるなんてできない。この子供たちが生まれてこない人生なんて、絶対に嫌だ。


「あ~~~~~~っ、どうしたらいいんだ」


 祥吾は頭を抱え、朝、セットした髪をクシャクシャしそうになって、寸前でその手を止めた。今日はまだ客の相手をするんだから、ちゃんとしておかなければ。


 やはり、美緒と関係を持たない人生にしよう。美晴と子供と別れることはできない。ほかに選択肢はないんだ。


「あっ」


 でもそうだ、三回やり直せるんだ。やり直せるじゃないか。一度戻って、美緒と関係を持たない人生にして、やっぱり美緒が欲しい……そう思ったら、また戻って美緒と関係を持つ人生にして美緒に何度も触れて美緒との人生を目いっぱい楽しんで、そしてまた戻ってくればいい。結局は別れる人生だったとしても……楽しめる時間は保険みたいなものとして取っておこう。


 祥吾はどうしようもなく身勝手で、自分に都合よく甘い人間だった。

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